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水の中に溶けていった、名前のない時間

もし、今この部屋を予約しようか迷っているなら。あるいは、隣にいる人とどこへ行こうか、答えの出ない会話を繰り返しているなら。10月の、少しだけ冷たくなった風が心地よい午後に、この手紙を読んでほしい。正解なんてなくていい。ただ、二人で心地よい温度を探しに行くだけで十分なのだから。

碧い静寂に溶け込み、呼吸を重ねる場所

首筋に残ったお湯の温もりを、秋の夜風がさらっていく。その瞬間、肺の奥まで冷たい潮の香りが入り込み、視界が不意にクリアになる感覚。私たちはホテル サンハトヤの、あの不思議な青い世界にいた。海底温泉という、水と光が境界線を曖昧にする空間。そこは、まるで世界から切り離された巨大な水槽の中に迷い込んだみたいだった。天井から降り注ぐ光のカーテンが水面で揺らめき、私たちの肌に網目のような模様を描き出していた。その光の粒子の一つひとつが、日常の悩みや迷いを洗い流してくれるような気がした。

水の中では、地上でまとっていた「正しさ」や「役割」が、ゆっくりと脱ぎ捨てられていく。「ねえ、ここだけ時間が止まっているみたいじゃない?」と、私は心の中で呟いた。耳に水が入ると、周囲の喧騒が遠のき、代わりに自分の心拍数と、隣にいるあなたの穏やかな呼吸だけが、心地よい低周波のように響いてくる。実のところ、水の中というのは、とても正直な場所だ。言葉を交わさなくても、指先が触れた瞬間の熱や、水流に押されてふっと肩がぶつかった時の柔らかな重みが、今の私たちの距離を正確に教えてくれる。

私は少しだけ格好をつけて、人魚みたいに優雅に泳いであなたを驚かせようとしたけれど、途中で足元の段差に気づかなくて、派手に水を跳ね上げて自分の顔にぶっかけた。あなたはそれを見て、声を上げて笑っていた。その笑い声が水中で小さく弾けて、なんだかとても愛おしい。完璧な旅なんて必要ない。むしろ、こういう不器用な瞬間があるからこそ、私たちは「あぁ、一緒にいていいんだ」と、静かに確信できるのかもしれない。青い光が肌に溶け込み、重力さえも忘れさせるその場所で、私たちはただ、同じリズムで呼吸をしていた。水底に沈む心地よさは、まるで深い眠りに落ちる前のまどろみのように、私たちを優しく包み込んでいた。

ページをめくる音と、金目鯛の温もり

部屋に戻ると、10月の夜特有の、少し湿った冷たい空気が窓の外で踊っていた。でも、室内は驚くほど静かで、心地よい温度に満ちている。もこもことした白いタオルに包まれながら、私たちはどちらからともなく、ベッドの上に身を投げ出した。シーツのパリッとした質感と、肌に吸い付くような柔らかな重み。そこには、誰にも邪魔されない、二人だけの小さな宇宙があった。ふと顔を上げると、ランプの柔らかな光があなたの横顔を照らしていた。その穏やかな表情を見たとき、言葉にする必要のない安心感が、胸の奥にじわりと染み渡った。

夕食にいただいた金目鯛の煮付けは、濃厚な甘みが口いっぱいに広がり、お腹の底からじんわりと温かさが広がっていく。おそらく、美味しいものを一緒に食べるということは、相手の体温を分けてもらうことに近いのかもしれない。食後の静寂の中で、私たちはそれぞれ別の本を開いた。ページをめくる乾いた音だけが、等間隔に部屋に響く。会話がないことが、こんなにも心地よいなんて。お互いの存在を意識しながら、でも無理に繋がろうとしない。その適度な距離感が、今の私たちにはちょうどいい。

私たちはまだ、お互いのことをすべて知っているわけじゃない。もしかしたら、これからも分からないことばかりかもしれない。けれど、このホテルの廊下を歩く時に感じた、どこか懐かしい洋風の空気感や、深夜のロビーに漂っていた静謐な時間。そういう断片的な記憶を共有できているだけで、十分な気がする。答えを出すことよりも、不確かなままで隣にいることを選ぶ。そんな贅沢な時間が、ここには流れていた。窓の外では、秋の夜風が木々を揺らしているけれど、この布団の中だけは、世界で一番安全なシェルターみたいに温かかった。

潮騒の音が、遠い記憶のように優しく響いている。

  • 伊東駅からの送迎バスの中で、窓の外に流れる秋の景色を、ただ黙って眺めてみて。
  • 海底温泉から上がった後、冷えた指先を温め合うための、温かい飲み物を準備して。