次男が、サイズ違いの大きな浴衣の裾を何度も踏んづけては、「おっとっと」と小さく跳ねている。糊のきいた綿の少し硬い感触が、まだ彼には大きすぎる。廊下を走る裸足の音が、パタパタと心地よいリズムを刻んでいた。彼はふと足を止めて、好奇心に満ちた目で私を見上げ、「エンゼル風呂って、本当に天使になれるの?」と真剣な顔で聞いてきた。答えを持っていない私は、ただ彼の柔らかい髪を撫でた。正解を出すことよりも、そんな無垢な問いが生まれる空間に、家族で一緒にいられることの方が、ずっと大切に思えた。
伊東園ホテルの天然温泉に肩まで深く浸かり、ふぅ、と長く息を吐き出す。熱いお湯が肌を包み込み、皮膚の表面がゆっくりとほどけて、心までお湯に溶け出していくような感覚。遠くで子供たちが騒いでいる気配が聞こえるけれど、今はその距離感がちょうどいい。温泉の柔らかな温度が、日々の緊張で強張った筋肉を静かに解きほぐしていく。誰のためでもない、自分だけの静寂を、このお湯の温度が守ってくれていた。
川側の客室の窓を開けると、絶え間なく流れる水の音が、ひんやりとした空気と共に部屋に満ちてくる。耳に届く水の音と、目で追う流れの間には、ほんの少しのラグがある。そのわずかなズレが、不思議と心を凪の状態にしてくれた。長女が窓辺に身を乗り出し、「あ、魚がいた!」と弾んだ声で叫ぶ。その声が川のせせらぎに溶け込み、心地よい和音となって響く。静かさとは、音が無いことではなく、心地よい音が調和している状態なのだと、改めて気づかされた。
朝食バイキングの会場には、炊きたてのご飯の甘い匂いと、深く澄んだ出汁の香りが漂っている。次男は野菜を頑なに拒否しながら、山盛りのご飯を夢中で頬張っていた。口の端に米粒をつけたまま、「ここ、美味しいね」と屈託なく笑う。その飾らない言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。豪華な料理の数々よりも、誰が何を食べて、どんな顔をしたか。そんな些細な記憶の断片こそが、旅の本当の味わいとなり、心に深く刻まれていく。
夜の廊下を照らす竹あかりの光が、壁にゆらゆらと長い影を落としている。琥珀色の柔らかな光に誘われ、子供たちがその影を追いかけて、追いかけっこを始めた。光と影が交互に訪れるリズムは、まるでホテル全体がゆっくりと呼吸しているかのようだった。外に出れば、九月の夜風に揺れるススキが、月明かりの下で銀色の波のように光っている。その淡い光の中に身を置いていると、世界がとても優しく、寛容な場所に感じられた。
城ヶ崎海岸で拾った、ゴツゴツとした小さな黒い石。それを客室のサイドテーブルにそっと置く。手のひらに残る石の冷たさと、ずっしりとした重みが、荒々しい岩場を歩いた時間を鮮やかに思い出させてくれる。子供たちが拾い集めた貝殻や小石が、部屋の隅に小さく積まれていた。それは彼らにとっての戦利品であり、この旅の記憶を繋ぐ地図のようなものだ。形のない思い出に、確かな重さを与えてくれる小さな物体たち。
最後はみんなで、もこもことした布団の中に潜り込む。誰が誰の隣にいるのか分からないまま、互いの体温が混じり合い、心地よい圧迫感に包まれる。さっきまでの騒がしさが嘘のように、和室に深い静寂が訪れた。規則正しい寝息が重なり合い、一つの大きなリズムになっていく。完璧な家族旅行なんてないけれど、この乱雑で温かい時間が、今の私たちにはちょうどいい。明日になればまた日常の喧騒に戻るけれど、この肌で感じた温度感だけは、ずっと忘れたくないと思った。
夜のしじまに、遠くで川のせせらぎだけが響いている。
- JR伊東駅から徒歩7分の道のりで、地元の小さなお店を覗きながら、お子さんと一緒に「宝探し」をしてみてください。
- 川側の客室を選んで、朝一番に窓を開け、冷たい空気と水の音で家族みんなで目を覚ます時間を過ごしてほしいです。