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濡れたサンダルと、森のにおい

濡れたサンダルと、森のにおい

首元にかけた冷たいタオルが、じわじわと体温を吸い取っていく。六月の札幌、雨はしとしとと降り続き、空気は湿った土と若葉の濃厚なにおいで満ちていた。奥定山渓温泉 佳松御苑のロビーに足を踏み入れたとき、まず指先に触れたのは札幌軟石のひんやりとした、どこか吸い付くような感触だった。子供たちは、濡れたサンダルで床をパタパタと鳴らしながら、好奇心いっぱいに辺りを見回している。大人が「静かにしなさい」と口にする前に、その賑やかさが、洗練された空間に心地よいリズムを刻んでいることに気づく。ここでは、静寂は単なる音の欠如ではなく、誰かがふいに笑い声を上げるための贅沢な余白なのだという気がした。

なぜ、この深い森の静寂に家族を連れてきたのか

正直に言えば、最初は「ただ静かに過ごしたい」という、大人の身勝手なエゴがあった。けれど、実際にこの地に身を置いて分かったのは、この場所が持つ「許容範囲の広さ」だ。ナラやタモの木材がふんだんに使われた室内は、陽光を柔らかく跳ね返し、どこか懐かしい温もりに満ちている。子供たちがリビングから寝室へ、あるいはテラスへと駆け抜けるとき、その物理的な距離感があるからこそ、親である私たちは少しだけ深く、ゆっくりと呼吸をすることができる。壁にぶつかるまでにある程度の時間がある。そのわずかな空間のゆとりが、そのまま精神的な余裕に変わっていく。原生林に抱かれたこの宿では、家族という小さなチームが、それぞれの歩幅で呼吸を合わせられる。誰かが不機嫌になっても、ふいに窓の外で揺れる深い緑を見つめているうちに、尖った感情が雨に溶けて消えていく。そんな、森の呼吸に身を任せる緩やかな時間の流れに、私たちは救われていたのかもしれない。

子供の瞳に映った、一番の宝物は何だったか

「ねえ、お風呂の中に森が入ってるよ!」と、上の子が歓声を上げた。森の展望温泉客室 紅・Kurenaiの展望風呂に浸かったとき、立ち上る白い湯気の向こう側に広がる深い緑が、まるで水面の下に沈んでいるように見えたらしい。光が葉の間から屈折し、水面に不規則で幻想的な模様を描き出している。子供は、その光の粒を指で捕まえようとして、何度も大きな水しぶきを上げた。大人は「景色が素晴らしい」と抽象的に捉えるけれど、子供の感性はもっと具体的で鋭い。絶妙な温度のお湯が肌にまとわりつく感覚、そして窓の外から届く鳥たちの澄んださえずり。そんな小さな断片を、彼らは全身で享受していた。ふいに、下の子が「森を洗ってあげたい」と言い出して、お湯をバシャバシャと外に向かって飛ばし始めたとき、私たちは堪えきれず笑い転げた。優雅な滞在とは程遠い光景だが、そんな乱雑で純粋な瞬間こそが、後で思い出す一番の記憶になる。光と影が交差する森の景色は、彼らにとっての巨大な遊び場であり、未知なる世界への入り口だったのだろう。

旅の終わり、心に深く沈殿して残るものは何か

夕食に供された白老牛のフィレ肉が、口の中でほどけるように溶けていく濃密な味わい。そして、朝食の和食膳に添えられた、北海道の力強い土の香りがする野菜たち。お腹が満たされることは、心まで満たされることと直結している。夜、心地よい疲労感に包まれながらベッドに体を沈めたとき、滑らかなシーツの質感と適度な反発力が、一日中歩き回った足を優しく包み込んでくれた。隣で規則正しい寝息を立てている子供たちの顔を眺めながら、ふと思う。旅とは、何か新しい自分を見つけることではなく、ただ隣にいる人の寝顔を、静かに、慈しむように眺める時間のことではないか。完璧なスケジュールも、計画通りの行動も必要ない。ただ、そこに一緒にいて、同じ温度の空気を吸っていたこと。その単純な事実だけが、記憶の底に澱のように、けれど温かく溜まっていく。

雨上がりの庭園で、紫陽花が誰にも気づかれずに色を変えていた。

  • 六月の雨の日こそ、テラス付きの「森の展望温泉客室 藍・Ai」を選び、濡れた森の香りを深く吸い込んでほしい。
  • イタリアンコースの後は、ライブラリーで家族と共に、あえて目的のない本を眺める静かな時間を。