真夜中の空腹は、誰が呼び覚ましたのか
3月の札幌、湯元 小金湯 / Yumoto Koganeyuの夜は、空気がピンと張り詰め、吐き出す息が白く濃い。貸切風呂で芯まで温まり、肌がしっとりと潤った状態で外へ出ると、夜風が心地よい刺激となって全身を駆け抜けた。そのとき、誰かがふいに「お腹空いた」と呟いた。それが合図だった。私たちは吸い寄せられるようにコンビニへ走り、袋いっぱいの戦利品を抱えて戻ってきた。カサカサと鳴るビニール袋の音が、静まり返った和風の廊下に密やかに反響する。その音が、まるで大人の秘密の作戦を遂行しているみたいで、私たちは顔を見合わせて小さく笑った。部屋に入った瞬間、濃厚な硫黄の香りがふわりと鼻をくすぐる。それは長い冬の眠りから覚めようとして、土の中で殻を破る種のような、静かだけれど確かな生命の匂いという気がした。私たちは畳の上に円を描くように座り込み、期待に胸を膨らませて戦利品を広げた。
咀嚼音に紛れ込ませた、とりとめない本音
「ねえ、見てよこの桜の開花予想。札幌なのに、もうこんな話してるの早すぎない?」
誰かがスマホの青白い光を指さして笑う。私たちはそれを覗き込みながら、北海道限定のポテトチップスを口に放り込んだ。パリッという乾いた音が、部屋の静寂を心地よく切り裂く。
「っていうか、今回のプラン、誰が立てたんだっけ。定山渓からわざわざ歩いてここに来るっていう、あの謎の自信。あれ、誰のアイデア?」
「私のせいにするなよ。みんな『いいじゃん』って言ったじゃん。結果的に、道端で迷子になって、変な看板の前で10分くらい立ち止まってたけど」
「あれは探索っていうの。冒険。だって、あんなに不気味で面白い看板、他で見られないし」
私たちは互いの計画性のなさを笑い合い、揚げ鶏の濃厚な脂が舌に絡む感覚に、心まで緩んでいく。ひな祭りの時期だなんて、誰かが思い出したように呟いた。女の子の節句なんて関係ないはずなのに、なぜか今のこの、とりとめもない時間が、人生で一番贅沢な贈り物みたいに感じられた。
「でもさ、正直に言って。このお湯、最高じゃない? あの硫黄の匂い、最初はびっくりしたけど、今となってはこれがなきゃ落ち着かない気がする」
「わかる。肌がツルツルっていうか、なんだか自分が新しくなった気分。まあ、明日にはまた元の、だらしない私に戻るんだろうけど」
「いいじゃん、それで。完璧な旅なんて、どうせ退屈だよ」
私は、自分の足の指先がゆっくりと温まっていくのを感じていた。誰かが私の肩に寄りかかり、誰かがまた新しい袋を開ける。そんな、取るに足らないやり取りの積み重ねが、私たちの間にある見えない境界線を、温泉の熱のようにゆっくりと、けれど確実に溶かしていく。
満たされた胃袋と、心地よい空白
袋の中身が空になり、部屋には再び静寂が戻ってきた。でも、それは寂しい沈黙ではなく、お互いの存在をただ受け入れているだけの、柔らかい空白だ。暖房の低い唸り音だけが、一定のリズムで刻まれている。窓の外では、3月の夜風が木々を揺らし、まだ冬の支配下にあることを告げていた。けれど、この部屋の中だけは、もう春が始まっているような気がした。
私たちはもう、多くを語る必要はなかった。ただ、湯治のような心地よい疲労感と、適度な満腹感に身を任せる。誰かが小さくあくびをし、誰かが布団に潜り込む。もしかすると、私たちは人生の多くの時間を、正解を探して、誰かに合わせるために使ってきたのかもしれない。けれど、ここでは、ただ「お腹が空いた」という本能に従い、互いの不完全さを笑い合える。そのことが、何よりも自由で、心地よかった。
空になった袋を片付け、明日の予定を適当に決める。きっとまた迷子になるし、誰かが文句を言うだろう。でも、それでいい。その不便さこそが、この旅の正体なのだから。
湯気の向こうで、誰かが小さく笑った気がした。
- 濃厚なバター風味の北海道ポテトチップス。塩気が、お風呂上がりの体に染み渡る。
- コンビニのホットスナック、ザンギ。熱々のまま、みんなでシェアして食べるのが正解。