裸足で触れた廊下の板張りは、ひんやりとした静寂を湛えていた。七月の北海道、湿り気を帯びた風が、深い森の濃い緑の匂いを運んでくる。チェックインを済ませ、案内されるまでの短い道のりで、下の子が私の指を強く握りしめた。その手のひらのじっとりとした熱さが、今の私には一番信頼できる地図のように感じられた。
騒がしさを抱えたまま、なぜこの静寂に身を投じたのか。
家族で旅に出るということは、ある種の「チーム作戦」のようなものだと思う。誰かが機嫌を損ねれば作戦は崩壊し、誰かが靴下を片方失くせばスケジュールは止まる。そんな兵慌てな日常という名の戦場から少しだけ距離を置きたくて、私たちは定山渓の鹿の湯を選んだ。昭和レトロな趣を大切にしながら、2024年3月にリニューアルしたという空間は、懐かしさと新しさが心地よく同居している。ファミリー和洋室の扉を開けた瞬間、い草の香りがふわりと鼻をくすぐった。三十平方メートルほどの空間に、大人二人と子供二人がひしめき合う。それは効率的な空間の使い方とは言えないけれど、お互いの呼吸が聞こえる距離にいることが、なぜか深い安心感となって心に染み渡った。
一番の難関は、家族全員を浴衣に着替えさせることだった。上の子が「自分でやりたい」と主張し、下の子がそれを真似して帯をぐちゃぐちゃにする。結局、大人がかりで格闘することになり、リビングは脱ぎ捨てられた服で溢れかえった。けれど、ようやく全員が浴衣に身を包んだとき、下の子がそれをマントのようにひるがえらせて廊下を走り出した。パタパタと板張りに響く軽やかな足音。その姿を見て、私たちは同時に笑った。整えられた静寂よりも、こういう乱雑で愛おしい時間こそが、今の私たちには必要だったのかもしれない。
子供の瞳が捉えた、一番の宝物とは何だったか。
子供の視線は、大人が見落とす小さな隙間にこそ注がれる。下の子が一番興奮したのは、豪華な設備に触れたときではなく、窓の外で鳴り響く渓流の音に気づいたときだった。「ねえ、お山が歌ってるよ」と呟いた小さな声。その言葉に導かれて、私たちはみんなでじっと耳を澄ませた。激しく、けれど一定のリズムを刻む水の音。それは、都会の喧騒とは違う、地球が深く呼吸している鼓動のように聞こえた。窓から差し込む午後の光が、水しぶきを宝石のようにキラキラと輝かせている。
温泉の温度に、最初は「あつい!」と大騒ぎしていた子供たちも、次第に心地よいぬるま湯の抱擁に身を任せ、お湯の中で指をパタパタと動かし始めた。白い湯気に視界が霞み、世界がぼんやりと溶けていく感覚。子供にとって、温泉とは単なる入浴ではなく、未知の液体に包まれるという壮大な冒険だったのだろう。お風呂上がりに食べた地元の冷やしトマトの、あの弾けるような酸味と、喉を通り抜ける鋭い冷たさ。それを頬張って、口の周りを真っ赤にした上の子の顔を見て、私はふと思った。贅沢とは、高級な設備があることではなく、こうして誰かが何かを全力で楽しんでいる姿を、ただ静かに眺めていられる時間のことなのだと。
旅路の果てに、心に深く刻まれた記憶とは。
最終日の朝、まだ眠い目をこすりながら、家族で並んで朝食を食べる。立ち上る味噌汁の温かな湯気の向こう側で、誰が誰の皿に料理を分けているのかも分からないほどの賑やかさ。けれど、その喧騒の中に、不思議な調和があった。鹿の湯という場所が、私たちの不器用な関係性を、柔らかいクッションのように包み込んでくれた気がする。
チェックアウトして外に出ると、七月の空気は驚くほど澄み渡り、肺の奥まで洗われるようだった。車に乗り込む直前、下の子が「またあのお山に歌を聴きに行こうね」と、私の袖をぎゅっと掴んだ。その小さな手の圧力と温度。それは、どんな写真や記録よりも鮮明に、この旅が成功だったことを教えてくれていた。完璧なスケジュール通りに進んだわけではない。むしろ、予定外のことばかりだったけれど、その「ズレ」こそが、後になって一番懐かしく思い出す記憶の栞になるはずだ。
窓から差し込む午後の光が、畳の上に長い四角い影を落としていた。
- 浴衣に着替えたら、ぜひ子供と一緒に廊下をゆっくり歩いてみてください。板張りの音が心地よいリズムを刻みます。
- 渓流の音がよく聞こえる時間帯に、あえて何もせず、家族でぼーっと外を眺める贅沢な時間を作ってみてください。