← 回到 日光鬼怒川三日月飯店

湯気の中で、言葉をなくした時間

湯気の中で、言葉をなくした時間

「ここ、ちょっと不思議な感じがしない?」

「うん、なんだか別の街に来たみたい」
君がそう言って、私のコートの袖を軽く引いた。外は刺すような一月の冷気で、吐く息が白く、すぐに夜の闇に溶けていく。けれど、日光きぬ川ホテル三日月の自動ドアが開いた瞬間、温かな空気が、まるで誰かに優しく抱きしめられたかのように押し寄せてきた。
「不思議だね。さっきまであんなに寒かったのに」
私たちは、指先の冷たさを笑い合いながら、お香のような落ち着いた香りが漂うロビーへとゆっくり歩き出した。

温度が心に届くまでの、静かな空白

部屋に入り、靴を脱いだとき、足の裏に触れたカーペットの柔らかな感触に、ふと意識が向いた。宿泊した「Mikazuki CLUB9 かわせみ」の空間は、ベッドから窓辺までの距離が心地よく、その数歩の間に外の世界の喧騒が遠ざかり、ただ川の流れだけが耳に届く。窓の外を流れる鬼怒川は、冬の低い光を反射して、叩き出された銀色の板のように冷たく、けれど静謐だった。私たちはそこに立ち、どちらからともなく肩を寄せ合った。言葉にするほどではないけれど、この絶妙な距離感が、今の私たちにはちょうどいい。

特に記憶に刻まれているのは、屋内ガーデンスパでの時間だ。冷え切った肌に熱い湯が触れた瞬間、脳が「熱い」と判断し、体がそれを「心地よい」と受け入れるまでの、ほんの数秒のタイムラグがある。その空白の時間に、私たちはただ、お互いの呼吸の音を聞いていた。立ち込める白い湯気に包まれて、世界の輪郭がぼやけていく。隣にいる君の顔も少しだけ不鮮明に見えたけれど、それでいいと思った。すべてをはっきりと見なくていい。ただ、この温度だけを共有していればいい。

ふと思い出すのは、浴衣の帯を自分で結ぼうとして、不格好に太くなってしまったとき、君に「お団子みたい」と笑われたことだ。私は少し恥ずかしくなり、わざと不機嫌な顔をしたけれど、内心ではその屈託のない笑い声が心地よかった。完璧である必要なんてない。そういう、ちょっとした綻びこそが、旅の記憶に鮮やかな色をつけるのかもしれない。

食事の時間は、ライブキッチンの賑やかな音と、食欲をそそる湯気の香りに包まれていた。地元の名産である湯波を口に運んだとき、その控えめでクリーミーな甘さが、冷えた体にゆっくりと染み渡っていく。味覚が時間をかけて心まで温めてくれる感覚。私たちは、次は何を食べようかと相談しながら、気づけば最初から話していたはずの「悩みごと」を完全に忘れていた。解決しなくていい問題もあるし、ただ隣で一緒に食べていれば、それで十分なこともある。ここには、ありのままの私たちでいてもいいという、静かな許しがあるように感じた。

窓の外では、静かに、けれど確実に雪が降り始めていた。

  • 部屋の窓辺で、銀色に光る川の流れをぼーっと眺めてみようか。
  • 浴衣の帯を少しだけ緩めて、二人でゆっくりと廊下を歩こう。