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誰が予約したか忘れた頃に、春が来た

誰が予約したか忘れた頃に、春が来た

砂利道に響く、不協和音のプレリュード

東武ワールドスクウェア駅から宿へ向かう道すがら、私たちの足元ではスーツケースのキャスターが不規則なリズムで砂利を弾いていた。ガガガ、と耳障りながらもどこか心地よいその音に混じって、「予約メール、誰が持ってるんだっけ?」という誰かの問いかけが空虚に響く。結局、誰も把握していなかったけれど、それでいいという奇妙な連帯感だけが共有されていた。四月の空気はまだ鋭く、鼻腔を抜ける風には春の湿り気と、遠くで咲き始めた桜の淡い香りが混じっている。笑い声と、小さな言い争いと、重い荷物を引きずる音。その混沌としたノイズこそが、私たちの旅の正体だったのかもしれない。そう思いながら辿り着いたのが、鬼怒川温泉 ホテル万葉亭だった。

この宿が教えてくれた、いくつかの「正解」

  • 計画を捨てる心地よさ
分刻みのスケジュールを組んできたはずが、ロビーに漂うお香の香りと温かな空気感に当てられ、他のお客さんの旅話に聞き入って一時間を溶かしてしまった。けれど、その「無駄」こそが、予定調和な旅に心地よいひびを入れる最高のスパイスになるのだと気づかされた。
  • 畳という名の、深い沈み込み
案内された和室10畳の部屋に入った瞬間、裸足に触れる畳のひんやりとした感触と、い草の清々しい香りに包まれた。体重を預けた時にゆっくりと身体が沈み込むあの感覚に、「私たちは立って歩くことよりも、こうして床に転がって天井の木目を眺めながら、とりとめもない話をすることに飢えていたんだ」と、心の底から納得した。
  • 豆乳鍋による一時的な休戦
夕食に供された那須三元豚の豆乳鍋。真っ白な湯気が視界をぼやけさせ、一口すすると、豆乳のまろやかさと豚肉の濃厚な旨みが、さっきまで言い合っていた些細な口論を静かに溶かしていった。温かい液体が胃に落ちる感覚は、どんな言葉よりも早く、私たちを同じテーブルに繋ぎ止めてくれた。
  • 木彫りの虎との、絶妙な距離感
館内に鎮座する木彫りの虎を相手に、誰が一番「格好いい写真」を撮れるか賭けたが、結果的に全員が絶妙に不格好な角度から撮影し、お互いの二重顎を笑い合うことになった。完璧な構図の写真よりも、笑い転げながら撮った失敗作の方が、ずっと長く記憶に刻まれるものだ。

リストの外側にあった、青い静寂

翌朝、午前六時の空気は肌を刺すような冷たさを帯びていた。誰が言い出したのか、私たちはまだ半分眠ったまま、外の空気を吸いに出た。鬼怒川の谷底からせり上がってくる湿った冷気が、肺の奥まで洗っていく感覚。そこには、昨夜の喧騒が嘘のような、深い青色の静寂が広がっていた。川のせせらぎが、低周波のハミングのように耳の奥に心地よく響いている。ふと見上げると、風に押された桜の花びらが、誰にも気づかれないほどの緩やかな速度で舞い落ちていた。それはまるで、世界が一時停止ボタンを押した瞬間のようで、私たちはただ、自分の呼吸の音だけを聴いていた。特別なことは何も起きなかったけれど、その「何もない時間」こそが、この旅で一番贅沢な時間だったと感じている。

最後に脱いだ靴が、玄関で少しだけ揃っていた。

  • 那須三元豚の豆乳鍋は、急がず、ゆっくりと温度の変化を楽しみながら味わってほしい
  • 早朝の冷たく澄んだ空気を感じに、あえて予定を決めずに谷沿いを散歩するのがおすすめ