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コートの袖に残った、かすかな梅の香り

コートの袖に残った、かすかな梅の香り

もし、いまあなたがこの部屋を予約しようか迷っているのなら、その迷いさえも旅の一部にしていいのかもしれません。誰かと一緒にいることは、この上なく心地よいけれど、同時に、自分という輪郭を保つためにとても疲れることでもあるから。そんな、少しだけ心に隙間が欲しいあなたへ。ある午後の静かな記憶を、一枚の絵葉書に添えて贈ります。

街の喧騒が、二人だけの静かな呼吸に溶けていく時間

JR三ノ宮駅の東口を出た瞬間、二月の鋭い風が頬を刺した。隣を歩くあなたのコートの裾が、風に煽られて小さく揺れている。私たちはどちらからともなく、少しだけ歩幅を狭めた。目的地である神戸三宮東急REIホテルまでは、歩いてわずか二分。その短い時間は、街の喧騒という大きな音量を、二人だけの静かな周波数へと調整するための、大切な調律の時間だった。 ロビーに足を踏み入れると、外の冷気で強張っていた指先が、モダンな空間に広がる木の温もりに触れて、ゆっくりと解けていくのがわかった。派手さはないけれど、そこに在るだけで呼吸が深く、ゆっくりになる。そんな心地よい静寂。スタンダードツインの部屋に入り、最初に気づいたのは、裸足で踏んだフローリングの、ちょうどいい温度だった。冷たすぎず、かといって過剰に温かいわけでもない。その中庸な温度が、張り詰めていた心をふっと緩めてくれた。 窓の外には、淡いグレーの空に溶け込む神戸の街並みが広がっている。ベッドに体を沈めたとき、パリッとしたシーツの質感と、かすかな洗剤の清潔な香りが鼻をくすぐった。「お腹空いたね」と小さく笑うあなたの声が、部屋の静寂に心地よく響く。私たちは、予定していた立派なレストランではなく、近くの店で買った地元のお菓子を、ベッドの上で分け合った。指先に付いた甘いクリームを、お互いに見合わせて小さく笑い合う。そんな、誰にも記録されない、なんてことのない瞬間。けれど、そのとき感じた胸の奥の小さな震えは、どんな豪華なディナーよりも、ずっと深く記憶に刻まれている気がする。

言葉にできない空白を、心地よい余白に変えて

翌朝、少し早起きして街へ出た。二月の神戸は、まだ冬の気配が濃いけれど、空気の中にだけ、春の予感が混じっている。道明寺天満宮の方まで足を伸ばすと、梅まつりの花々が、冷たい空気の中で凛と咲いていた。白や紅の花びらが、冬の眠りから覚めたばかりの、静かな熱を持ってそこにいた。 あなたの横顔を眺めながら、私はふと思った。私たちは、お互いのことをすべて理解し合えるわけではない。言葉にできない空白が、いつも二人の間に横たわっている。けれど、その空白こそが、私たちが一緒に歩き続けられる理由なのだと思う。全部を埋めようとしなくていい。ただ、この冷たい風の中で、どちらからともなく手を繋いだときの、手のひらの体温だけを信じていればいい。 ホテルに戻り、再びあの木の温もりに包まれたとき、私たちはもう、無理に会話を探そうとはしなかった。ただ、同じ空間で、それぞれに違う方向を向いて、静かに本を読んだり、外の景色を眺めたりしていた。沈黙が心地よいと感じられる関係は、もしかすると、一番贅沢な旅の成果なのかもしれない。神戸三宮東急REIホテルの、あの明るくて穏やかな光の中で、私は自分の内側にある孤独という臓器が、静かに呼吸しているのを感じた。それは寂しさではなく、あなたという存在を隣に感じられるための、大切な余白のようなものだった。 チェックアウトのとき、エレベーターのボタンを押す指先が、少しだけ震えていた。それは名残惜しさというよりは、この静かなリズムを、日常にどうやって持ち帰ろうかという、小さな不安だったのかもしれない。けれど、あなたのコートの袖に、かすかに梅の香りが残っているのに気づいたとき、私は少しだけ安心した。記憶は消えても、感覚は身体に刻まれる。この香りが消えるまで、私たちはこの旅の余韻の中にいられるはずだ。

窓の外で、春を待つ風が静かに吹いている。ある部屋の、ある午後の記憶より。

  • 二月の冷たい空気の中、道明寺天満宮で早咲きの梅を探して、ゆっくりと歩いてみてください。
  • 三ノ宮の街で、ふと見つけた小さなお菓子屋さんのスイーツを、部屋で二人だけで静かに味わってみてください。