「本当に、ここであってるのかな」
「本当に、ここであってるのかな」
君が少しだけ不安そうに、エレベーターの鈍い銀色のボタンを見つめていた。密閉された空間に、君が纏う淡い石鹸のような香りがふわりと漂う。
「たぶんね。でも、間違っててもいい気がする」
僕はわざと曖昧に答えて、君の柔らかなコートの袖を軽く引いた。
「ふふ、そういうところ」
小さな笑い声が、静かな空間に心地よく響く。僕たちはまだ、お互いの正解を完全には知らないままだ。だからこそ、この不確かさが、冬の夜の静寂に溶け込んで心地よかった。
湯気に溶ける境界線と、指先の体温
2月の熊本の空気は、肌に触れると薄い氷の膜が張り付くように冷たい。カンデオホテルズ熊本新市街の最上階へと昇るにつれ、街の喧騒が遠のき、心地よい緊張感が漂い始める。スカイスパの露天風呂に足を踏み入れた瞬間、刺すような冷気と濃厚な熱気が激しくぶつかり合い、目の前に白い壁のような湯気が立ち上がった。その境界線に身を浸すと、肩まで包み込むお湯の重みが、旅の疲れで強張っていた心をゆっくりと解いていく。ふと隣を見ると、君の頬がほんのりと赤くなっている。その色が、冬の夜空に灯る街の明かりよりもずっと鮮やかに、僕の瞳に焼き付いた。
僕たちは多くを語らなかった。ただ、遠くに見える熊本城のシルエットを眺めながら、お湯の温度がちょうどいいことだけを共有していた。言葉にすれば、この繊細な均衡が崩れてしまう気がしたから。部屋に戻れば、キングルームの広々とした空間と、清潔なリネンのパリッとした冷たさが肌を撫でる。次第に体温で温まっていくシーツの感触が、僕たちがこの旅で少しずつ距離を縮めてきた過程に似ているな、と感じた。洗面所で君がアメニティを落としたときの、小さく不器用な音が、完璧ではない僕たちの関係を肯定してくれるようで、僕は静かに微笑んだ。
翌朝、もどきどきしながら歩いた梅まつりの道。小さく、けれど芯のある梅の香りが、冷たい風に乗って鼻先をくすぐる。甘酸っぱい香りに誘われて歩く12分の道のりは、不思議と短く感じられた。君が「あ、あそこ見て」と指差した先にあった、淡いピンクの花びら。それを眺めていたとき、僕たちはもう、迷わずに同じ方向を見ていた気がする。朝食にいただいた地元の食材の滋味深い味わいも、記憶のどこかに静かに沈殿している。温かいお茶の湯気が眼鏡を曇らせ、それを拭うまでの数秒間、君がいたずらっぽく笑っていた。そんな、誰にも記録されない断片こそが、この旅の本当の輪郭になる。
窓に付いた白い結露を指でなぞると、外の景色が淡い水彩画のように滲んでいた。
- 途中で見つけた小さな梅の花を、時間を忘れて一緒に眺めてほしい。
- 露天風呂で、指先がしわしわになるまで、ただ静かに隣にいてほしい。