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吊橋の先に待っていた、秘密の森への招待状

七月の苗栗は、空気が白く光るほどに暑い。車のエアコンが吐き出す冷たい風と、誰がこぼしたのか分からないポテトチップスの匂いが混ざり合う車内。けれど、川に架かる吊橋を渡り、目の前に現れた虎山溫泉會館(湯之島)-泰安溫泉の入り口に足を踏み入れたとき、次男の表情がふっと変わった。足元から伝わる吊橋のわずかな揺れと、川面のせせらぎが、彼を日常から切り離したのだろう。「ねえ、ここ、お城みたい!」と叫ぶ彼の瞳には、大人が見る「静かな温泉宿」ではなく、深い森に隠された秘密基地が映っていた。大人がチェックインの手続きに追われている間、彼はロビーの隅にある小さな植木鉢の影や、床に落ちた名もなき虫の動きに全神経を集中させていた。大人が見る「静寂」とは違う、彼だけの高解像度で切り取られた世界がある。彼にとっての旅の始まりは、ホテルの設備ではなく、足元にある小さな石ころの形や、廊下を歩くときに心地よく響く自分の靴音から始まっていた。

石の湯船は、世界で一番大きなスープの鍋

部屋に入ると、まず目に飛び込んできたのは、どっしりと構えた石造りの浴槽だった。指先で触れると、少しだけざらついていて、けれどどこか体温に近い温かみを持つ質感。次男が目を輝かせて「これ、巨大なスープの鍋だね!」と叫んだ瞬間、張り詰めていた家族の空気がふっと緩んだ。彼は本気で、自分が具材になったつもりで湯船に飛び込んだ。お湯が激しく跳ねて、バスルームの壁に小さな水滴の地図が描かれる。彼にとって、温泉に入ることの意味は「リラックス」なんていう大人の概念ではなく、「お湯という不思議な液体の中での大冒険」なのだろう。夕食に堪能した鱘龍魚(チョウザメ)の火鍋の、あの鮮やかな色合いと弾けるような食感に興奮していた彼が、今度は湯気の中で光のダンスを追いかけている。石の縁に顎を乗せて、じっとお湯の中の自分の指を見つめる彼の横顔に、ふと気づいた。彼が見ているのは、ただの湯気ではなく、水面に映る未知の惑星の景色なのかもしれない。そんな突飛な発想に、つい笑ってしまう。完璧なスケジュールをこなそうとしていた私の心の中にあった、固く結ばれた緊張の結び目が、子供の無邪気な笑い声と一緒に、ゆっくりとほどけていく感覚があった。

闇に溶ける時間、大人が取り戻す静寂の余白

夜、子供たちが泥のように深い眠りに落ちた後、部屋には濃密な静寂が降りてくる。それは単なる音の不在ではなく、心地よい重みを持った静けさだった。私は一人で、もう一度湯船に身を沈める。山あいの夜気はひんやりと肌を刺すが、身体を包み込む熱い湯のコントラストが、意識を心地よく麻痺させていく。筋肉の隙間にじわりと熱が染み込み、日々の生活で無意識に抱え込んでいた名前のない疲れや、誰にも言えなかった小さな不安が、お湯に溶け出していく。ふと気づけば、窓の外では午後からの雷雨の名残か、しとしとと静かな雨が降り始めていた。屋根を叩く規則的な雨音は、まるで誰かが奏でる静かなリズムのように聞こえる。この場所にある、少しだけ年季の入った壁の質感や、廊下のわずかな軋みさえも、今は心地よい。不完全であることは、そのまま「人間らしい」ということなのだろう。子供たちが起こしてくれた騒がしい時間は、この静寂をより深く、贅沢なものにするための前奏曲だったのかもしれない。身体の強張りが消え、心の中の曲線が緩やかになっていく。明日になればまた、子供たちの「見て見て!」という叫び声に振り回される日常に戻るけれど、今の私には、この静かな空白こそが必要だったのだと感じる。

雨上がりの夜空に、小さな星がひとつだけ、静かに瞬いていた。

  • 吊橋を渡る際、足元の揺れを楽しみながら「どんなお宝が待っているか」を子供と一緒に想像してほしい。
  • 子供が寝静まった後の30分だけ、スマホを置いて、雨音と温泉の温度だけに集中する贅沢を味わってみてほしい。