← 回到 尚順君樂飯店

11月の苗栗の空気は、しっとりと肌にまとわりつき、冷たい雨の匂いと濡れた土の香りが心地よい重さとなって降りてくる。目的地を決めない旅の途中で辿り着いた尚順君樂飯店のロビーに足を踏み入れた瞬間、高く突き抜けた天井がもたらす圧倒的な開放感に、肺の奥まで澄んだ空気が満たされていくのを感じた。チェックインを済ませ、静かに滑り出すエレベーターの中で、ふと視線が重なった。君が小さく微笑む。その瞳の奥に、言葉に

11月の苗栗の空気は、しっとりと肌にまとわりつき、冷たい雨の匂いと濡れた土の香りが心地よい重さとなって降りてくる。目的地を決めない旅の途中で辿り着いた尚順君樂飯店のロビーに足を踏み入れた瞬間、高く突き抜けた天井がもたらす圧倒的な開放感に、肺の奥まで澄んだ空気が満たされていくのを感じた。チェックインを済ませ、静かに滑り出すエレベーターの中で、ふと視線が重なった。君が小さく微笑む。その瞳の奥に、言葉にならない安堵と、旅先特有の心地よい心細さが揺れているのが見えた。「やっと、ここに辿り着いたね」と心の中で呟く。案内された客室は驚くほど広々としており、外の喧騒を完全に遮断した静謐な繭のような空間だった。裸足で触れたフローリングのひんやりとした感触が、足裏から心地よく伝わってくる。それは、今の私たちの、近すぎず遠すぎない、けれど確かな体温を感じる絶妙な距離感に似ていた。ベッドに深く身を沈めると、上質なリネンの柔らかな質感が身体を包み込み、今日一日の歩いた距離と、心に澱のように溜まっていた名もなき疲れが、ゆっくりとほどけていく。ふと、街角の江技舊記で啜ったワンタンの記憶が蘇る。口いっぱいに広がる出汁の深いコクと、喉を焼くような熱い温度。あの温もりだけが、冷え始めた秋の夕暮れの中で、唯一の確信のように感じられた。私たちは、お互いの正解をまだ知らない。どちらの歩幅が正しいのか、どのタイミングで手を繋げばいいのか。答えのない問いを抱えたまま、ただ同じ時間を共有する。それは、洗い立てのシーツにできた小さなしわを、指先でゆっくりと伸ばしていく作業に似ている。完璧に平らにする必要はない。ただ、その布の質感に触れながら、しわさえも、二人の時間が積み重なった証拠だと思えればいい。午後に訪れた景隅吧では、色鮮やかなマカロンが宝石のように皿の上で並んでいた。甘いバニラの香りが鼻をくすぐり、紅茶から立ち上る白い湯気が、二人の間に淡いカーテンを作る。マカロンを一口かじったとき、不意に崩れたその形が、なんだか不器用な私たちの関係みたいで、二人で小さく笑い合った。深い話はせず、ただ窓の外を流れる時間を眺める。折り目の柔らかさに身を任せるように、ただそこに在ることだけを許し合う。それが今の私たちにとって、一番贅沢な過ごし方なのだ。バスルームで浴槽に溜めたお湯に浸かると、想像以上の強い水圧が肩を心地よく叩き、凝り固まった思考が温かな水に溶けて消えていく。お湯の温度が肌に馴染む頃、心の中の境界線が少しだけ曖昧になり、お互いの体温を静かに受け入れられる気がした。深夜三時、連廊で繋がる順順世界の賑やかさが嘘のように消え、部屋の中には時計の刻む規則的な音と、隣で眠る君の静かな寝息だけが残る。その空白の時間が、何よりも雄弁に、私たちがここにいてもいいのだと、ありのままでいいのだと教えてくれる。窓の外に見える夜の苗栗は、深い藍色に染まり、遠くで揺れる芒花の白さが、誰にも見つからない秘密のように静かに、けれど確かにそこに在った。そんな静寂の中で、君の指先に触れたとき、そこにはちょうどいい温度が宿っていた。正解なんてどこにもないけれど、この温度だけは信じていいのかもしれない。

  • 景隅吧のティータイムで、あえて言葉を交わさず、お互いの呼吸の速さを確かめてみる。
  • 江技舊記のワンタンを、冷え込む夕暮れ時に、温かいうちに二人で分け合う。