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小さな指の間から消えていった湯気

小さな指の間から消えていった湯気

冬の終わりの冷たい空気が、まだ指先に鋭く残っている。下の子が、温泉から立ち上がる白い湯気を「捕まえたい」と言って、小さな手を何度も空中で動かしていた。けれど、指の間をすり抜けて消えていく白い煙に、本人は不思議そうな顔をしながらも、なぜかずっと笑っていた。完璧に何かを掴み取ることよりも、掴み損ねた瞬間の滑稽さの方が、子供にとってはずっと面白いのかもしれない。そんな、何気ない瞬間の輝きを拾い集めるために、私たちは旅に出る。

なぜ、あえてこの静寂に包まれた奥地に家族を連れてくるのか

玄関を開けた瞬間、古い木造建築特有の、乾いた木の香りがふわりと鼻をくすぐった。それは記憶のどこかにある、幼い頃に祖父母の家に遊びに行った時の懐かしい匂いに似ている。廊下を歩くたびに、床が小さく、けれど確かなリズムで「ギィ」と軋む。その音が、まるでこの建物が長い年月を経て呼吸している証拠のように聞こえて、不思議と心が凪いでいくのを感じた。上の子は「迷路みたいだ!」とはしゃいで走り出し、下の子はその後に続いて、畳の上にぺたぺたと裸足で歩いていく。畳の厚みが、子供たちの不規則な足音を柔らかく吸い込み、家全体が大きな繭のように私たちを包み込んでいた。

家族で旅をするということは、個々の異なるリズムを一つの曲に合わせようとする、とても不器用な作業だと思う。誰かが靴を履くのに時間がかかり、誰かが急に道端の石ころに興味を持つ。けれど、大丸温泉旅館のこの静かな空間に身を置くと、そのズレさえも心地よい不協和音のように感じられた。予定を詰め込むのではなく、ただそこにいて、同じ温度の空気を吸う。それだけで、バラバラだった心のピースがゆっくりと組み合わさっていく。効率や正解を求められる日常から切り離され、ただ「今、ここに一緒にいる」という事実だけが、深い安心感となって私たちを繋いでいた。

子供たちが一番心を奪われたのは、どの瞬間だっただろうか

一番の驚きは、やはりあの「野趣あふれる川の湯」だったと思う。露天風呂に足を踏み入れたとき、目の前に広がっていたのは、単なるお風呂ではなく、温かい水の奔流だった。絶え間なく流れ込んでくるお湯の音は、まるで森のささやきのようで、下の子は目を輝かせて「温泉の川だ!」と叫んでいた。水面に反射する3月の淡い光が、プリズムのように細かく砕けて、子供の瞳の中でキラキラと踊っている。お湯に浸かると、とろりとした質感が肌にまとわりつき、体の中の強張っていた何かが、春の雪解けのようにゆっくりと溶け出していくのが分かった。

そして、館内にある飲泉所で、温泉水を一口飲んだ時の、あの絶妙に不思議な味。子供たちは「泥みたいな味がする!」と顔をしかめながらも、好奇心に抗えず何度も何度も挑戦していた。大人は「健康にいいから」と理屈で飲むけれど、子供たちはただ、その未知の味という体験そのものに挑んでいた。お風呂上がりに、下の子が大人用の大きなバスローブを羽織って「私は今から魔法使いになる」と言いながら、廊下をマントのように翻して走っていた。その姿があまりに滑稽で、私たちはみんな、ただ静かに笑い合った。そんな、計画表には絶対に書いていない空白の時間こそが、この旅の正体だったのだと思う。

旅路の終わりに、心に深く刻まれているものは何か

部屋に戻り、ベッドの下に敷き詰められているという竹炭の存在に思いを馳せた。目には見えないけれど、そこにあることで深い眠りを誘うという。私たちが意識せずに心地よさを感じるのは、いつもそういう「目に見えない配慮」があるからだろうか。檜風呂に浸かり、清々しい木の香りに包まれながら、ただぼーっと天井を眺める。3月の光はまだ弱く、けれど確実に春の気配を孕んでいた。窓の外に見える那須の山々は、深い冬の緑から少しずつ、淡い色へと塗り替えられようとしていた。

家族というチームで、この秘湯の奥深くまでやってきたこと。そこで交わした、なんてことのない会話や、誰かが転びそうになった瞬間の笑い声。それらは、写真に撮ればただの記録になるけれど、感覚として記憶すれば、一生消えない質感になる。帰る頃には、またいつもの慌ただしい日常に戻るのだろう。けれど、指の間をすり抜けていったあの湯気のように、掴みきれないけれど確かにそこにあった温もりを、私たちは心の中に持ち帰ることができる。それは、何かを解決することよりもずっと大切な、静かな肯定感のようなものだった。

湯上がりの冷たい空気の中で、家族の肩が自然と寄り添っていた。

  • 3月の那須はまだ冷え込むため、子供には厚手の靴下と、脱ぎ着しやすい羽織ものを準備してください。
  • 飲泉所での「味の感想戦」は、家族の意外な一面が見えて盛り上がるのでぜひおすすめします。