← 回到 TAOYA白濱千疊

硫黄の香りと、シャツを掴む小さな手の温度

走り出した足音が、ロビーの空気に溶けるまで

車のドアを閉めた瞬間、9月の湿った海風が頬を撫でた。まだ少しだけ夏の熱が残っているけれど、空気の端っこに秋の気配が混じっている。そんな温度感。チェックインの手続きを待つ間、老二が私のシャツの裾をぎゅっと掴んでいた。彼にとって、TAOYA白浜千畳の大きなエントランスは、きっと未知の惑星に降り立ったような感覚だったのかもしれない。

大人が「洗練された空間だな」なんて考えている間に、子供たちの意識はもっと低いところにある。磨き上げられた床に反射する天井のライト、どこからか漂ってくるかすかなお香の匂い、そして何より、自分たちがここで「自由になってもいい」という空気感。老二が不意に手を離し、パタパタと小さな足音を立てて走り出した。その音は、静まり返ったロビーの中で鋭いアタック音のように響いたけれど、不思議と心地よかった。まるで、丁寧に調律されたホールに最初の音が鳴り響いたときのような、そんな予感。

私は彼を追いかけながら、ふと思った。旅っていうのは、予定通りに進むことじゃなくて、こういう不意な脱線を楽しむことなのだろう。老二の視線は、大人が見落とすような小さな隙間や、絨毯の模様の不思議な盛り上がりに釘付けになっている。彼にとっての旅は、地図にある観光地を巡ることではなく、目の前の「今」という質感に触れることなのだという気がする。


魔法のラウンジと、浴衣のマント

子供たちにとって、このホテルのオールインクルーシブという仕組みは、単なるサービスではなく「魔法」に見えたらしい。ラウンジに入った瞬間、老二の目がらんらんと輝いた。そこには、大人が財布を出す必要もなく、好きな飲み物やスイーツが並んでいる。彼にとって、それは「おねだり」という交渉プロセスを飛び越えて、直接的に快楽に到達できる聖域だったのだろう。

「ねえ、ここ、全部食べていいの?」

そう聞いてきた老二の口元には、すでにアイスクリームが少しだけついていた。その甘い香りと、グラスの中でカランと鳴る氷の音。その音が重なり合って、家族の会話に心地よいリズムが生まれる。老大は最初こそ「静かにしなさい」なんて大人の真似をしていたけれど、次第に地元のジュースの味に夢中になり、いつの間にか老二と一緒に笑っていた。

一番のハイライトは、浴衣に着替えたときだった。老二は浴衣を正しく着ることを拒否し、それをマントのように肩に羽織って「僕は海を守るヒーローだ!」と宣言して廊下を駆け出した。帯がほどけ、裾が引きずり、正直に言って見た目はめちゃくちゃだったけれど、その姿を見たとき、私はふっと肩の力が抜けるのを感じた。

完璧な家族旅行なんて、本当はない。誰かが泣き、誰かが怒り、誰かがわがままを言う。でも、TAOYA白浜千畳のゆったりとした空間は、そういう家族の不協和音さえも、心地よいリバーブ(残響)に変えてくれる。鋭い叫び声も、ここでは空間に吸収され、最後には穏やかな笑い声へと溶けていく。老二がマントを翻して走り去る後ろ姿を見ながら、私はこの「適度な乱雑さ」こそが、私たちが求めていた贅沢だったのだと気づいた。


子供たちの寝息と、月明かりの静寂

深夜2時。ようやく嵐が去った。

老二と老大が、重なり合うようにして深い眠りに落ちた後の部屋は、驚くほどの静寂に包まれている。さっきまであんなに騒がしかった空間が嘘のように、今はただ、子供たちの規則正しい寝息だけが低周波のように響いている。私はそっとベッドから抜け出し、裸足でタイルの冷たさを感じながら温泉へと向かった。

お湯に身を沈めた瞬間、肩に溜まっていた重い塊が、じわじわとほどけていく感覚があった。硫黄の香りが鼻をくすぐり、肌にまとわりつく熱いお湯が、体温と境界線をなくしていく。ここでは、誰かの母親である自分も、誰かの妻である自分も、ただの「個」に戻れる。

湯船から上がり、ふと窓の外を見た。9月の夜空には、冴えわたった月が浮かんでいた。白浜の海岸線に沿って、銀色に光るススキが風に揺れているのが見える。その静かな光景を眺めていると、昼間の喧騒が遠い記憶のように感じられた。けれど、その喧騒があったからこそ、この静寂がこれほどまでに深く、心地よく感じられるのだろう。

オールインクルーシブという仕組みがもたらしたのは、単なる経済的な利便性ではなく、「断らなくていい」という心の余裕だったのかもしれない。「これはダメ」「あれは高いから無理」という言葉を飲み込み、ただ子供たちの好奇心に身を任せる。その贅沢さが、私の心に溜まっていた澱を静かに洗い流してくれた気がする。

部屋に戻り、眠る子供たちの顔を覗き込む。老二の頬には、まだ小さなアイスの跡が残っていた。明日になれば、また彼らは騒ぎ出し、私はそれに振り回されるだろう。けれど、今はただ、この静かな残響の中に浸っていたい。不完全で、騒がしくて、それでも温かい。そんな私たちの輪郭が、この場所で少しだけ柔らかくなった気がした。

月明かりに照らされたススキが、静かに夜の呼吸を合わせていた。


  • 子供と一緒にラウンジで「一番好きな味」を探す冒険に出かけてみて。
  • 夜、子供たちが寝静まった後に、一人で月を眺めながら地酒をゆっくり味わう時間を。