← 戻る 中の坊 瑞苑

指先が触れるまで、少しだけ時間がかかった

指先が触れるまで、少しだけ時間がかかった

「ここ、本当に私たちでいいのかな」

「ねえ、ここ、本当に私たちみたいな不器用な二人で来ていい場所なのかな」
君がそう呟いたとき、ちょうど部屋の障子が静かに、けれど心地よい摩擦音を立てて閉まった。
「いいと思うよ。むしろ、そういう人間が来るべき場所なんじゃないかな」
僕は少し照れくさく答えながら、足の裏に伝わる畳のしっとりとした、もこもことした感触を確かめる。
君は小さく笑い、浴衣の帯をぎゅっと結び直した。その指先のわずかな震えが、今の私たちの、心地よくももどかしい距離感を物語っているようで、僕はそれを見つめていた。

静寂に溶け出す、心のラグ

9月の神戸は、まだ夏の湿り気が肌にまとわりついているけれど、有馬の山懐へと深く登れば、風の温度がひとつ分だけ心地よく下がっているのがわかる。中の坊 瑞苑に足を踏み入れた瞬間、まず耳に飛び込んできたのは、絶え間なく流れる水の音だった。それは単なる装飾的なBGMではなく、この地が悠久の時をかけて呼吸してきた、深いリズムのように響く。

私たちが案内された和モダンデラックスの部屋には、静謐な時間が流れていた。備え付けられた半露天風呂に、ゆっくりとお湯を溜める。金泉の、あの独特な濁りを帯びた褐色。それはまるで、誰かが大切に保管していた古い記憶や、大地の情熱を溶かし込んだような色だ。お湯に身を沈めた瞬間、熱さに身体がビクッと跳ねる。けれど、そこから数分後、強張っていた肩の力がふっと抜けるまでの「空白の時間」がある。私はこのラグが好きだ。都会の喧騒で張り詰めていた神経が、ゆっくりと、けれど確実に解けていくまでの贅沢な時間。それは、君と私の間にあった、言葉にできないぎこちなさが、温泉の温度に溶かされていくプロセスでもあるのかもしれない。

対照的に、銀泉の透明さは、今の私たちに必要な「リセット」のような感覚を運んでくれた。肌に触れる水は滑らかで、ただぼーっと秋の空を眺めている。外ではススキが風に揺れ、かすかに擦れ合う乾いた音が聞こえる。9月の月は、少しだけ寂しげで、けれど十分すぎるほどに明るく、私たちの沈黙を優しく照らしていた。

夕食に運ばれてきた神戸牛のヒレ肉を口に運ぶ。舌の上で脂がゆっくりとほどけ、濃厚な旨味が広がっていく感覚。味覚が研ぎ澄まされると、不思議と隣にいる君の呼吸のタイミングがわかるようになる。私たちは多くを語らなかったけれど、同じタイミングで「美味しいね」と小さく呟いた。その小さなシンクロニシティに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

中の坊 瑞苑という空間は、何かを劇的に解決してくれる場所ではない。ただ、今の不完全な状態のままで、隣に誰かがいることを静かに許してくれる。そんな深い肯定感に包まれていた。私たちはまだ、お互いの正解を知らないけれど、このラグのような時間の中で、ゆっくりと歩幅を合わせていけばいいのだと思う。

濡れた足跡が、廊下の深い木目にゆっくりと吸い込まれていった。

  • 貸切風呂で、あえて何も話さない時間を10分だけ作ってみて。
  • 朝の冷え込んだ空気に包まれながら、二人でゆっくりと有馬の街を歩いてみてほしい。