← 戻る ホテルニューアカオ ホライゾン・ウイング

指先が触れたとき、海の色が溶けた気がした

指先が触れたとき、海の色が溶けた気がした

鼻の奥をツンと刺激する、冷たく湿った十二月の潮風が、火照った頬を容赦なく撫でていく。JR熱海駅からホテルニューアカオ ホライゾン・ウイングへと続く十分ほどの道のり、隣を歩く君との距離が、あと数センチだけ近ければいいのにと願うけれど、その願いを言葉にする勇気はまだ持てず、ただアスファルトを叩く乾いた靴音だけが、もどかしいリズムを刻んでいた。ロビーに足を踏み入れた瞬間、そこには時代を止めたかのような、古い映画のセットを彷彿とさせる静謐で濃密な空気が流れていた。どこか懐かしい、古い絨毯と磨かれた木の香りが混じり合った昭和レトロな空間は、今の私たちには少しだけ大きすぎて、まるで大人の世界に迷い込んだ子供のような心細さが胸をかすめる。シアターレストランの、あの圧倒的なスケール感に包まれて席に着いたとき、私たちはわざと声を潜めて、囁き合うように会話を交わした。高く聳える天井と豪華な装飾、そして足元に広がる深い色の絨毯に飲み込まれそうになればなるほど、テーブルを挟んで向き合う君の瞳だけが、この広大な世界で唯一の確かな座標のように見え、そこだけが鮮明に色づいていた。外はちょうどブルーアワーの時刻で、空の深い青と海の濃い青が境界線を失って溶け合い、世界がひとつの静かな色に染まっていく。その曖昧なグラデーションは、今の私たちの、名前のつかない関係に似ているのかもしれない。正解なんてどこにもないけれど、ただ一緒にここにいるということだけで、十分な答えになっているような、心細くて、けれどたまらなく心地よい感覚。ホライゾン・ウイング客室に戻り、足裏に触れた厚い絨毯の柔らかな感触に、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていく。窓の外に広がる夜の海は、底の見えない深い紺色をしていて、遠くに見える街の灯りが、寄せては返す波に揺れる小さな宝石のように点滅していた。缶詰BAR「缶蔵」で、慣れない手つきで缶を開けたときの、あの鋭い金属音と、舌の上に広がる少しだけしょっぱいおつまみの味。君が「これ、意外と美味しいね」と小さく笑ったとき、心の氷が溶けるように緊張が解け、私たちはどちらからともなく、今まで心の奥に仕舞い込んでいた小さな本音を、夜の静寂に零し合った。お風呂上がりに、もこもこのルームウェアに身を包んで、二人で肩を並べて海を眺めていた時間。湯気で少しだけぼやけた視界の中で、君の肩が私の肩にそっと触れたとき、心拍数が跳ね上がるのが分かった。それは冬の夜の冷たさを忘れさせるほどの、密やかな温度だった。クリスマスやカウントダウンの喧騒はホテルの外にあるけれど、この部屋の中にある静かな親密さこそが、私たちが本当に求めていた贅沢だったのかもしれない。完璧な旅だったとは言えないけれど、迷いながら、探り合いながら、それでも同じ方向の海を見つめていたあの時間は、きっと私の記憶の中で、ずっと温かい周波数を奏で続けるだろう。最後に見上げた夜空に、たったひとつだけ、鋭く光る星があった。それを指差して、私たちはなんとなく、来年もまたここに来ようかと約束した。その言葉が現実になるかは分からないけれど、今この瞬間に触れている温度だけは、本物だったと信じたい。

  • 缶詰BAR「缶蔵」で、あえて見たことのない珍しい缶詰を選び、二人で味の感想を語り合ってほしい。
  • ブルーアワーに部屋の明かりを消し、外の青い光がゆっくりと室内を満たす静寂に身を委ねてほしい。