← 戻る ホテルエール

肩と肩の間に、少しだけ隙間があった

「ここ、本当にいいところだね」

「ここ、本当にいいところだね」
君がそう呟いたとき、指先がわずかに震えていた。期待と不安が混ざり合った、繊細な震え。
「うん。まあ、まあまあかな」
わざとぶっきらぼうに返したけれど、心拍数は心地よく跳ね上がっていた。ホテルの白い壁に反射する秋の陽光が、眩しすぎて直視できない。ロビーに漂うかすかなアロマの香りと、遠くで聞こえる波の音が、私たちの緊張を優しく包み込んでいた。私たちは、お互いに何を期待しているのかを言葉にできないまま、ゆっくりと部屋のドアを開けた。

境界線が溶けていく温度

10月の別府は、肺の奥まで澄み渡るひんやりとした空気に包まれていた。別府駅からホテルエール / Hotel Aileまで歩くわずかな時間、ふわりと漂う硫黄の香りが、温泉街に辿り着いたことを肌に刻み込む。道端で揺れる秋の草花や、遠くで聞こえる車の走行音。そんな些細な音が、二人で歩くリズムを少しずつ整えていく気がした。ホテルの外観は、白とオレンジが混ざり合った南仏のような色合いで、それがヨットハーバーの深い青に溶け込んでいる。まるで異国の港町に迷い込んだかのような錯覚に陥る光景だった。

ツインルームに足を踏み入れると、窓の外に広がるベイサイドの景色が二人を迎えてくれた。停泊しているヨットが、午後の光を受けて小さく揺れている。ベッドに身を沈めると、リネンのひんやりとした感触と、その下に潜む柔らかな弾力が、肩に溜まった緊張をゆっくりと解いていった。窓からベッドまでの数歩の距離が、今の私たちにとって、ちょうどいい空白のように感じられた。

夕食に味わったとり天の、サクッとした衣と甘酸っぱいポン酢の刺激が口いっぱいに広がったとき、君がふっと無防備に笑った。その笑顔は、事前に立てた完璧な旅行計画よりも、ずっと価値のあるものに思えた。美味しいものを食べたときの、あの飾らない表情。そういう瞬間だけは、私たちが同じ周波数に合わせられた気がして、胸のあたりがじんわりと温かくなる。

夜、屋上露天風呂に浸かると、肌を撫でる風は冷たかったけれど、お湯の温度は心地よく体を包み込んだ。視界を遮るもののない夜空に、淡い星が散らばっている。白い湯煙が二人の間をゆっくりと流れていき、どこまでが自分でお湯で、どこからが君なのか、その境界線が曖昧に溶けていく。もしかしたら、私たちはまだ、お互いの本当の歩幅を知らないのかもしれない。でも、この静寂の中で、隣に誰かがいるという物理的な温度だけは、確かな情報として伝わってくる。

完璧な答えなんて、どこにもない。ただ、この心地よい温度の中で、もう少しだけ一緒にいられたらいいな、という気がした。翌朝、展望ラウンジでコーヒーを飲んでいると、カップから立ち上る白い湯気が、ゆっくりと視界を曇らせた。窓の外には、夜よりもずっと鮮やかな青い海が広がっている。「次、どこ行く?」という君の問いかけに、私はすぐに答えられなかった。でも、その沈黙が気まずくないことに気づいたとき、私たちは少しだけ、前よりも近くなった気がした。

遠い波の音だけが、静かに部屋の隅まで届いていた。

  • 展望ラウンジで、あえて何も話さずに、ただ海の色が移ろうのを一緒に眺めてみて。
  • 屋上露天風呂から見える夜のヨットハーバーを、君の好きな角度から写真に撮ってあげて。