← 戻る ホテルエール

濡れた靴下の冷たさと、お風呂上がりの静寂

凍えた指先を溶かした、街にぽっかり浮かぶ「大きなみかん」

12月の別府を吹き抜ける風は、まるで鋭い針のように頬を刺す冷たさがあった。JR別府駅からホテルまで歩くわずか7分という時間は、大人の足なら瞬きする間に過ぎ去る距離だけれど、小さな足で一歩ずつ踏みしめる子供たちにとっては、果てしなく続く長い旅路のように感じられたはずだ。厚手のウールコートに身を包んでいても、襟元から忍び込む冷気に、下の子は何度も私の手をぎゅっと握りしめた。その小さな手の震えが、私の心まで冷やしそうになったとき、視界に飛び込んできたのがホテルエールの鮮やかなオレンジ色の外壁だった。南仏風のデザインという大人の理屈など、彼らには関係ない。ただ、冬の灰色に塗りつぶされた空にぽっかりと穴を開けたような、圧倒的な色彩。下の子が「あ!大きなみかんがある!」と歓声を上げた瞬間、凍りついていた周囲の空気がふわりと緩み、心地よい体温が戻ってきた気がした。ロビーに足を踏み入れた瞬間、私たちを包み込んだのは、温かい空気の大きな塊だった。冷え切って白くなっていた指先が、ゆっくりと、時間をかけて解けていく。チェックインの手続きという大人の儀式など、彼らにとっては退屈な待ち時間に過ぎない。子供たちが真っ先に心を奪われたのは、足裏に伝わる絨毯のふかふかとした贅沢な感触と、大きな窓の外に宝石のように散らばるヨットハーバーの景色だった。

絨毯の海を泳ぐスーパーマンと、夜空からこぼれ落ちた星たち

子供たちにとって、ホテルという空間は日常のルールが通用しない、巨大な魔法の遊び場だ。大人が「ベイサイドビューが素晴らしいね」と静かに感嘆する景色を、彼らは全く別の物語として捉えていた。窓の外、夜の海に点在する街灯や船の明かりをじっと見つめていた上の子が、「ねえ、星が海に落ちちゃったんだね」と、至極真面目な顔で教えてくれた。その純粋で鋭い観察眼に、私は少しだけ気圧される。彼らの冒険は、家族で泊まるトリプルルームに入った瞬間に最高潮に達した。まずは、誰が一番高く跳べるかを競うベッド上のジャンプ大会。そして、クローゼットで見つけた真っ白なバスローブを、下の子が「これはスーパーマンのマントだ!」と宣言して肩にかけた。ベルトをうまく結べないまま、裾を引きずって廊下を全力で駆け抜ける。けれど、案の定、長い裾に足を引っ掛けて、そのまま絨毯の上に派手に転がった。一瞬の静寂が流れ、どうなるかと思ったが、本人が一番大きな声で笑い出したため、私たちも堪えきれず一緒に笑い転げた。予定調和ではない、こうした乱雑で騒がしい時間こそが、実は旅のメインディッシュになる。上の子は、お風呂に行くまでのルートを完璧な地図のように記憶しようと試み、下の子は廊下の角を曲がるたびに「新しい国に着いた!」と胸を張っていた。ホテルエールの空間は、彼らにとって自由を謳歌できる王国だったのかもしれない。そんな賑やかなリズムが、部屋の中に心地よい活気を与えていた。

硫黄の香りと静寂に包まれて、大人が取り戻す深い呼吸

嵐のような時間が過ぎ、子供たちが深い眠りに落ちたとき、部屋には本当の静寂が訪れる。規則正しく刻まれる小さな寝息。それが、この旅で最も贅沢なBGMであることに、ようやく気づかされる。私たちは、ようやく自分たちだけの時間を取り戻した。屋上露天風呂から上がったばかりの肌は、ほんのりと熱を持っていて、心までじんわりと解きほぐされていた。別府特有の、かすかに漂う硫黄の香りが、いま自分がこの土地に身を置いていることを静かに教えてくれる。お風呂上がりに、キンキンに冷えた飲み物を一口含んだとき、喉を通る刺激が心地よく、一日中張り詰めていた神経がゆっくりと弛緩していくのがわかった。ベッドに入ると、リネンのひんやりとした清潔な感触が肌に触れ、そこから体温でゆっくりと温まっていく。その緩やかな温度の変化に身を任せていると、昼間の騒々しさが、遠い記憶のように愛おしく感じられた。上の子が頑固に「自分でお風呂に入りたい」と言い張ったことや、下の子が食事中にスープをこぼして大騒ぎしたこと。そのひとつひとつが、今はかけがえのない断片となって、心の中に積み重なっている。完璧なスケジュールなんて、最初から必要なかった。むしろ、その「ズレ」や「失敗」こそが、家族というチームの形を、より鮮明に描き出してくれる。窓の外、静まり返った港の灯りを眺めながら、私たちは言葉少なに、明日どこへ行こうかと話し合った。答えは出ないけれど、その不確かさが心地いい。ただ、いまここに一緒にいるという事実だけが、確かな重さを持って、私たちを深い眠りへと誘っていった。

濡れた靴下の冷たさを忘れさせる、白いシーツの温もりだけが残っている。

  • 子供と一緒に、ヨットハーバーの灯りを数えながら「海に落ちた星の数」を競い合ってみてください。
  • お風呂上がり、子供たちが寝静まったあとに、大人の時間として静かに地元の地酒を味わうのがおすすめです。