← 戻る 御宿 野乃別府

靴を脱いだ瞬間に、旅が始まった気がした

靴を脱いだ瞬間に、旅が始まった気がした

湯煙の街に舞う、春の喧騒と桜の記憶

鼻を突く濃厚な硫黄の匂い。別府駅に降り立った瞬間、この街が巨大な生き物のように、白い湯気で深く呼吸していることがわかる。四月の空気はまだ鋭く、頬を撫でる風には春の気配が混じっているものの、どこか湿り気を帯びて肌にまとわりつく。足元に目を向ければ、黒いアスファルトの上に淡いピンクの桜の花びらが散らばり、それが子供たちの靴底にぴったりと張り付いていた。「見て!ピンクのシール!」と叫ぶ次男。それはただの散った花びらに過ぎないのだが、彼にとっては世界を塗り替えるほどの大発見らしい。一方、長女は「もう歩けないよ」と、駅からわずか一分という距離にありながら、大げさに肩を落として歩いている。ベビーカーの車輪がガタガタと不規則な音を立て、周囲の観光客たちの賑やかな話し声と混ざり合い、私の頭の中は心地よいはずの旅の始まりに、少しだけ飽和状態だった。家族で旅をするということは、常に誰かの歩幅に合わせながら、同時に誰かが脱線しないよう監視し続けるという、極めて高度なチーム作戦のようなものかもしれない。私たちはそんな騒々しい春の旋律の中を、正解のない目的地へとゆっくりと歩みを進めていた。

境界線を越え、い草の香りに抱かれる瞬間

ようやく辿り着いた「御宿 野乃別府 / Dormy Inn Beppu」の入り口で、靴を脱いだその瞬間。世界から音が消えたというより、音が「柔らかく塗り替えられた」と感じた。外の喧騒が、厚い畳の層に吸い込まれていく感覚。足裏に触れるい草のざらりとした心地よい質感と、かすかに漂う乾いた草の香りが、旅の緊張で張り詰めていた神経をゆっくりと、丁寧に緩めてくれる。靴を脱ぐという行為は、単なる日本のマナーではなく、外の世界で演じていた「親」という役割や、旅先での警戒心を脱ぎ捨てる儀式のようなものだ。ここでは、誰かが泣き叫んでも、あるいは子供たちが走り回っても、その音は鋭く響かず、どこか心地よい生活のリズムとして空間に溶け込んでいく。ロビーに流れる静謐な空気。チェックインを待つ間、次男が畳の上でゴロゴロと転がり始めたが、スタッフの方はそれを咎めるどころか、慈しむような微笑みで眺めていた。ああ、ここは戦いの中にある私たちのための、静かな「避難所」なのだと深く実感させられた。

家族という名の聖域、畳に広がる小さな王国

部屋の扉を開けた瞬間、長女が「私の場所はここ!」と、一番日当たりの良いスペースを素早く陣取った。今回選んだトリプルのお部屋は、想像していたよりもずっと、私たちの「乱雑さ」を寛容に受け入れてくれる広さがあった。子供たちが慣れない浴衣に袖を通そうとして、もたもたしている様子を眺める。サイズが合っていないせいで、裾を何度も踏んづけてはよろける次男の姿は、滑稽で、けれどたまらなく愛おしい。大人はようやく、ベッドの端に腰を下ろして深い溜息をつく。その溜息には、駅からの短い距離で使い切った忍耐と、ようやく辿り着いた安堵が、温かいお茶のように混ざり合っていた。畳の上に散らばる色とりどりの玩具、半分脱げかけた靴下、そして誰が飲んだのかわからないコップの水。完璧に整えられたモデルルームのような空間よりも、こういう「生活の跡」が散らばっている状態の方が、ずっと人間らしくて心地よい。夜、天然温泉大浴場で火照った肌に、冷たくて清潔なシーツが触れる瞬間の快感。隣で子供たちが静かに、規則正しい寝息を立て始めているのを聞きながら、私はこの静寂の重みをゆっくりと味わっていた。ここは、誰にも邪魔されない、私たち家族だけの小さな、けれど最強の城なのだ。

ガラス越しの夜景と、静寂という名の贅沢

深夜、子供たちが深い眠りの海に落ちた後、私は一人で窓辺に立った。冷たいガラス一枚を隔てた向こう側には、別府の街の灯りが宝石を散りばめたように点在している。外はきっと、まだ春の夜風が冷たく、誰かが急ぎ足で家路を辿っているのだろう。でも、今の私にとって、その景色はまるで映画のスクリーンを眺めているかのように遠く、幻想的だ。部屋の中の適温、微かに聞こえるエアコンの規則的な作動音、そして隣で丸くなって眠る子供たちの柔らかな体温。そのすべてが、私をこの安全な場所に繋ぎ止めている。さっきまであんなに騒がしかった空間が、今は深い静寂に包まれている。孤独ではないけれど、完全に一人になれる時間。この絶妙な距離感こそが、家族旅行における最大の贅沢であり、明日への活力になる。明日になれば、また「お腹空いた」とか「あれをやりたい」という要求の嵐が吹き荒れるだろう。けれど、今はただ、この安全な境界線の中で、夜が明けるのを静かに待っていたいと思う。

靴を脱ぎ捨て、畳の温もりに身を任せて、ただ明日を待ちたい。

  • 天然温泉大浴場でのひとときは至福。湯上がりに冷たい牛乳を飲み干せば、旅の疲れが溶け出していく。
  • 別府駅から徒歩1分という好立地。子供連れの移動ストレスを最小限に抑えられる最高の環境だ。