← 戻る 御宿 野乃別府

浴衣の袖に、小さな指が入り込んだとき

浴衣の袖に、小さな指が入り込んだとき

視界を塗り替える、静謐なベージュの海

駅を出てすぐに目の前に現れた御宿 野乃別府 / Dormy Inn Beppuの入り口は、外の冷たい空気とは違う、どこか密やかな温度をまとっていた。12月の別府の街は、クリスマスのイルミネーションが夜の闇を塗りつぶそうとしていて、街中が浮足立った赤や青の光に染まっている。しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、視界は落ち着いたベージュの畳色に塗り替えられた。それはまるで、真っ白な和紙に一滴の濃い墨を落としたときのように、家族という名の賑やかな混沌が、この静かな空間にじわりと広がっていく感覚だった。長男が大きなスーツケースを転がして、畳の上で「あ、音が消えた」と不思議そうに立ち止まっている。その小さな背中と、ホテルの端正な直線的デザインが不思議と調和していて、私の心に深い安堵感が広がった。完璧に整った空間に、少しだけ乱暴な子供たちの足跡が刻まれていく。その不完全さが、この場所をただの宿泊施設ではなく、私たちの「居場所」にしてくれる。窓の外ではまだ冬の夜が激しく明滅しているけれど、ここでは時間がゆっくりと、水彩画のように滲んでいくのが見えた。

畳が吸い込む、幼い足音の柔らかなリズム

このホテルの心地よさは、どこまでも畳が続いているという視覚的な統一感だけでなく、その「音」にある。普通、子供を連れて歩くときは、フローリングに響く足音や、何かをぶつけたときの鋭い音に神経を尖らせるものだ。けれど、ここではすべての音が柔らかい。次男が浴衣をマントのように羽織って廊下を駆け抜けたとき、その足音は鋭い打撃音ではなく、畳に優しく吸収される「トントン」という低い周波数に変わっていた。そのリズムが心地よくて、私はふと、肩に力が入っていた自分に気づき、緊張がほどけていくのを感じた。13階にある天然温泉大浴場へ向かうエレベーターの中で、長男が「地球の呼吸が聞こえる気がする」と真面目な顔で呟いた。大人が考えればそれは単なる温泉の湧出音だろうけれど、子供の純粋な耳には、それが惑星の鼓動のように聞こえたのかもしれない。お風呂上がり、静まり返った廊下を歩くときに時折混じる子供たちのクスクス笑い。それが静寂の中に心地よいリズムを刻んでいた。音がないことではなく、心地よい音が適切に吸収されていること。それこそが、この場所がくれる本当の贅沢なのだと思う。

指先に触れた、湯気と木の温もりという記憶

大浴場の脱衣所で、次男が濡れた手で木の手すりをぎゅっと握りしめていた。冬の冷えた指先が、温泉の熱を帯びた木材に触れた瞬間の、あの微かな温度差。それが、彼にとっての「安心」のスイッチだったのかもしれない。お湯に浸かったとき、肌にまとわりつく感覚は、単なる温かさではなく、重みのある包容力に似ていた。12月の凍てつく外気で強張っていた肩の筋肉が、お湯の温度にゆっくりと屈服していく。それは、固まった砂糖が温かいお湯の中でゆっくりと溶けていくプロセスに似ていた。貸切風呂では、子供たちが誰が一番長く潜っていられるかという、どうでもいい競争に夢中になっている。その騒がしさが、立ち込める白い湯気に包まれて、角が取れて丸くなる。上がったあとに身に纏うタオルの、少し厚手でざらりとした質感。それが肌に触れるたびに、自分が今、ここにいていいのだという感覚が強くなる。完璧に静かな休暇なんて必要ない。むしろ、この湯気の中で、誰かがはしゃぎ、誰かがそれをなだめるという、ありふれた日常の断片があるからこそ、この温かさが本物だと感じられた。

深夜の静寂に溶け合う、出汁の温もりと家族の絆

夜も深まった頃、無料で提供される「夜鳴きそば」の時間がやってきた。小さな器に盛られた、シンプルな醤油ベースの麺。豪華なディナーではないけれど、立ち上る湯気の向こうに見える家族の顔が、なんだかとても愛おしく見えた。次男が「お風呂のあとの麺は、世界で一番おいしいね」と、口の周りをスープで汚しながら笑う。その瞬間、私たちはただの「旅行者」ではなく、一つの運命共同体のような、強い絆で結ばれたチームになった気がした。麺をすする音、器がテーブルに当たる小さな音、そして「おいしいね」という短い同意。それらが重なり合って、深夜の静寂の中に小さな、けれど確かな温度の塊が出来上がる。醤油の香ばしさと、出汁の優しい塩気が、疲れた身体の芯にじわじわと染み込んでいく。それは、複雑な味付けの料理よりもずっと、心に深く届く味だった。長男が自分の麺を少しだけ次男に分けてあげたとき、その小さな譲り合いが、どんな高級なサービスよりも贅沢な光景に見えた。お腹が満たされると同時に、心の中の隙間が、温かいスープでゆっくりと埋まっていくのがわかった。

硫黄の香りと、冬の夜が運ぶ懐かしい記憶

別府の街に漂う、あの独特な硫黄の香り。最初は少し驚くかもしれないけれど、次第にそれが「ここに来た」という心地よい合図に変わっていく。御宿 野乃別府 / Dormy Inn Beppuのロビーに漂う、新しい畳の清々しい香りと、かすかに混じる温泉の香りのブレンド。それは、冬の冷たい空気が温かい室内に流れ込んできたときにだけ生まれる、特別な調和だった。12月の深夜、ふと窓を開けたときに流れ込んできた、刺すような冷気。その冷たさが、直前まで浸かっていた温泉の余熱を鮮やかに際立たせる。冷たい空気と、身体の中に残る熱。そのコントラストがあるからこそ、私たちは「温かい」という感覚を正しく認識できる。子供たちが寝静まったあと、静まり返った部屋で、かすかに漂うお茶の香りと畳の匂い。それは、幼い頃に過ごした実家の記憶を呼び起こすような、懐かしくて、少しだけ切ない香りだった。でも、その切なさは孤独ではなく、満たされたあとにやってくる心地よい余韻のようなものだ。この香りを嗅ぐたびに、私はきっと、この賑やかで不完全な夜のことを思い出すだろう。

浴衣の裾をひきずりながら、子供たちが夢の中へと歩いていった。

  • JR別府駅から徒歩1分という近さを活かして、チェックイン前に街のイルミネーションを散歩するのがおすすめ。
  • 13階の天然温泉大浴場では、ぜひ家族で違う温度の湯を巡り、それぞれの「一番好きな温度」を話し合ってみてほしい。