硫黄の匂いが、想像以上に濃密に漂っていた。駅に降り立った瞬間、湿った空気と共に鼻を突くあの独特な香り。誰が一番先に「ゆで卵みたいな匂い」と言うか賭けたけれど、結局全員が同時に口にして、お互いの顔を見て爆笑した。誰が勝ったのかさえ曖昧なまま、私たちは期待に胸を膨らませて「界 別府 / KAI Beppu」へと向かった。
地獄蒸しの野菜が、口の中で驚くほど甘く、とろけた。土の熱だけでじっくり火を通したという、原始的で贅沢な調理法。立ち上る白い湯気が視界を遮り、温かな湿度が肌にまとわりつく。隣で「これ、家で蒸し器を使えば効率的じゃん」と、旅の情緒をぶち壊す正論を口走った友人を、私たちは静かに、そして徹底的に無視することにした。
「柿渋の間」に足を踏み入れると、深い茶色の壁が私たちを包み込んだ。古い図書館の奥深くに迷い込んだような、静謐で重厚な空気感。あなたには信じられないかもしれないけれど、私たちはそこで「誰が一番この部屋の雰囲気に馴染んでいるか」という、どうでもいい選手権を始めた。「私はこの渋い色に溶け込んでいる」と豪語する友人の横で、一番派手な色の服を着てきたやつが、絶妙に浮いていて最高に面白かった。
足湯に浸かりながら、湯煙の向こうに広がる別府の街を眺める。じんわりと足先から伝わる心地よい熱が、心まで緩めていく。お湯の温度がちょうどいいせいで、つい話し込んでしまい、気づけば予定していた観光スポットをすべてスルーしていた。「もういいよ、これで」と誰かが笑う。計画通りにいかない空白の時間こそが、私たちの旅における正解なのだ。
朝6時のオーシャンビュー。部屋の明かりを消すと、世界が深い群青色に染まり、境界線が溶けていく。聞こえるのは、自分の静かな呼吸の音だけ。孤独というよりは、心地よい空白に優しく包まれている感覚だった。隣でまだ深い眠りに落ちている友人の、規則正しい寝息が、静かなメトロノームのように心地よく響いていた。
温泉の底に、臼杵焼のモチーフが静かに沈んでいた。指先でその滑らかな曲線をなぞると、冷たい陶器の記憶が、温かいお湯の中でゆっくりと溶け出していく。足裏に触れるタイルのひんやりとした感触と、包み込むお湯の熱。ここにある時間だけが、外界から切り離されて、ゆっくりと、贅沢に流れている。
ロビーに飾られた雛人形の鮮やかな色彩を見て、ふと3月になったことを思い出した。桜の開花予想を何度もチェックして、「絶対間に合う」と豪語していたけれど、外に出ればまだ肌寒い風が頬を刺す。でも、その「間に合わなさ」が、かえって春を待つ時間を長く、愛おしいものにしてくれるのかもしれない。
チェックアウトの時、靴を履く手が少しだけ重く感じられた。何かを失ったわけではないけれど、この場所にある静寂を、ほんの少しだけ切り取って持ち帰りたいと思った。「また来ようね」という誰かの言葉。その声に込められた体温が、心地よく肌に残っていた。
窓の外では、名もなき鳥が春の予感を歌っていた。
- 予定を全部捨てて、足湯で街を眺める時間を増やしてみて。
- 柿渋の部屋で、あえて何もしない贅沢を味わうのがおすすめ。