← 戻る 眺望の宿しおり

瞼を閉じても、まだ赤い花が咲いていた

瞼を閉じても、まだ赤い花が咲いていた

湯煙の街と、心地よい迷路への誘い

結露した缶コーヒーを、火照った手首に押し当てたときの、あの鋭いひやりとした感覚。そこからすべてが始まった気がする。別府駅に降り立った瞬間、肺に流れ込んできたのは、まるで誰かが濡らした巨大なタオルを顔に押し付けられたような、重たくて濃い八月の空気だった。街全体が巨大な蒸し器になったかのような湿り気と、どこからともなく漂う硫黄の香りが、ここが温泉の街であることを強烈に意識させる。私たちは、誰が一番先にこの暑さに屈するかで密かに賭けをしていたけれど、結果的に負けたのは、地図アプリを握りしめて「こっちだ」と自信満々に歩き出したAだった。結局、私たちは目的地とは逆方向の路地に入り込み、見知らぬ誰かの家の軒先で、耳を劈くような蝉の声に包まれていた。「ねえ、本当にこっちで合ってる?」という私の問いに、Aは「直感を信じろ」と苦笑いする。誰一人として「もういいよ」とは言わなかったけれど、みんな心の中では「やっぱりね」と呟いていたはずだ。足元のサンダルがアスファルトの熱を拾い、ふくらはぎにじわりと汗が溜まっていく。でも、その不快感さえも、旅の始まりを告げる心地よいリズムのように感じられた。私たちは互いに「完璧な計画通りだね」と皮肉を言い合いながら、ゆっくりと、本当にゆっくりと、街の喧騒を背にして登り始めた。

坂道の途中で拾い集めた、名もなき静寂

観海寺温泉へ向かう道は、緩やかな、けれど確実な上昇だった。耳に届く音が、車の走行音から、風に揺れる木の葉の擦れる密やかな音へと、グラデーションのように変わっていく。途中でふと立ち止まったとき、道端に置かれた古びた自動販売機を見つけた。塗装が剥げ、どこか懐かしい飲み物のラインナップが並ぶその機械を見て、私たちは「この世界だけ時間が止まっているみたいだ」なんて、ありふれた冗談を言い合った。本当は、時間が止まったのではなく、私たちがただ、日常という名の高速道路から切り離されただけなのだろう。ふと見上げた空には、夏の終わりの予感を含んだ、突き抜けるような青。その青さが強すぎて、視界の端に白い光の粒子が踊っているように見えた。私たちは、あえて遠回りをすることにした。誰かが「あっちに面白い看板がある」と言い出したからだ。実際には、ただの古びた看板だったけれど、その無意味な寄り道こそが、この旅の正解だったのかもしれない。坂を登るたびに、肺の中の空気が入れ替わり、心拍数が少しだけ上がる。それは、何か大切なものに出会う直前の、期待に満ちた鼓動に似ていた。

紺青の夜に溶ける、絹のような時間

「眺望の宿しおり」の扉を開けたとき、まず感じたのは、外気とは明らかに違う、ひんやりとした静寂の温度だった。裸足で踏んだタイルの冷たさが足裏から脳まで突き抜け、ようやく「着いた」という実感が湧いてくる。案内された海側のお部屋に入ると、私たちは誰が一番いい場所を確保するかで、子供のように言い争った。結局、窓際を陣取ったのは、一番に飛び込んだBだったけれど、私たちはすぐにその争いさえも忘れて、ベランダから見える景色に言葉を失った。別府湾の深い青と、市街地の灯りが、まるで誰かが宝石箱をひっくり返したみたいに、夜の闇に広がっていた。

その夜、私たちは街で花火大会に参加した。夜空に咲く大輪の光。それが消えた後も、瞼を閉じると赤い花がいつまでも残像として焼き付いていた。その光の粒を抱えたまま宿に戻り、かけ流し温泉に身を沈めた。お湯の質感は、驚くほどトロトロとしていて、皮膚を優しく包み込む。pH9.1という数字は、感覚で言えば「液体に溶けた絹」のような触感だった。お湯の中で、私たちは今日一日の迷路や、くだらない言い争いについて、ぽつりぽつりと話し始めた。お湯の温度がちょうどよく、思考がゆっくりと解けていく。自分の静かな呼吸が、浴室に小さく響く。その音さえも、心地よいBGMのように聞こえた。

部屋に戻り、ふかふかの布団に体を沈めたとき、窓の外の夜景が、先ほどまで見ていた花火の残像と重なった。私たちは、この場所に、自分たちの夏の一ページに、そっと「しおり」を挟んだような気がした。明日になればまた、誰が遅刻するかで言い合い、迷路のような道を歩くのだろう。でも、今のこの静寂だけは、誰にも邪魔されたくない。心地よい疲れが、心地よい重力となって、私たちを深い眠りへと誘っていった。

瞼の裏に、まだ小さな光の粒が踊っている。

  • 観海寺温泉の「トロトロ感」を最大限に味わうため、あえて何も考えずに湯船でぼーっとすることを。
  • 部屋のベランダから見える夜景を眺めながら、スマホを置いて、友人との「くだらない話」に時間を使い切ってほしい。