手のひらに触れるホテルのルームキーが、予想以上に冷たかった。チェックインした瞬間の、あの心地よい緊張感と、ロビーに漂うかすかなお香の香り。でも、部屋の扉を開けた途端にその緊張がほどけたのは、きっと隣で誰かが「この畳、裸足で歩くとしっとりして心地いいな」と、小さく独り言を漏らしたからだろう。い草の青い香りが鼻腔をくすぐり、外の喧騒が遠のいていく。私たちは、日常という重いコートを脱ぎ捨てるように、ゆっくりとその空間に身を沈めた。
波間に溶け出した、予想外の5つの記憶
浴衣の帯の結び方で、本気で言い合いになったこと:パリッとした綿の質感が指先に心地いいけれど、どうしても綺麗に結べない。誰が一番早く、それっぽく結べるかというくだらない賭けを始めたが、結局三人ともぐちゃぐちゃな結び目で、それがおかしくてしばらく床に転がって笑い転げた。正解なんてどこにもなかったけれど、あの不格好な帯こそが、私たちの旅の始まりを告げる合図だった気がする。
屋上露天風呂で、風に飛ばされそうになりながら眺めた空:源泉掛け流しのぬるりとしたお湯が肌にまとわりつき、芯まで温まる感覚に浸っていたときのことだ。ふと顔を上げると、別府湾から吹き付ける強い潮風が頬を打ち、「これ、本当に飛ばされるかも!」と誰かが本気で叫んだ。立ち上る白い湯気と冷たい風が激しく混ざり合う中で、私たちはただ突き抜けるような青い空を眺めていた。あの風の温度と、隣で誰かが小さく漏らした笑い声が、今でも耳の奥に残っている。
朝6時の別府湾が、誰かがこぼしたインクみたいだったこと:まだ街が完全に目覚める前、窓の外に広がっていたのは、深く、濃い、底の見えない青色だった。誰が最初に起きたわけでもなく、ただ静かにその色彩を眺めていた時間。言葉にするのは野暮だと思ったけれど、あの青さは、私たちが今まで見たどの海よりも静かに、でも確実にそこに存在していた。信じられないかもしれないが、あの瞬間だけは、私たち全員が同じ周波数で呼吸していたのだと思う。
朝食の炊き立てご飯から上がる、白い湯気の密度:レストランに足を踏み入れた瞬間、鼻をくすぐったのはお米の甘い香りと、どこか懐かしい出汁の匂いだった。視界を白く染める濃密な湯気の中で、誰が一番多くおかわりするかという、子供のような競争が始まった。口の中に広がる温かさと、友人たちの騒がしい話し声。お腹が満たされるのと同時に、心の中の空白がゆっくりと、温かいスープのように埋まっていく感覚があった。
夜、畳の上で転がって話した、答えの出ない悩み事:露天風呂付和室の心地よい静寂の中、私たちはあえて難しい話を始めた。誰の人生が正解かとか、これからどうなりたいかとか、答えなんて出るはずのない問い。でも、不思議と不安はなかった。畳のざらつきを指でなぞりながら、誰かが「まあ、なんとかなるでしょ」と大きなあくびをした。その適当さが、どんな正論よりも深く、私たちの心を救ってくれた気がする。
寄せては返す、心の空白を埋める時間
結局、旅の記憶というのは、計画していた観光地よりも、こういう名もなき瞬間の積み重ねでできている。帯を結び損ねた指先のもどかしさや、屋上露天風呂で感じた冷たい風、そして別府湾の深い青。バラや藤の花が咲き誇る5月の別府の空気は、少しだけ湿っていて、でも心地よく肌に馴染んだ。シーサイドホテル美松大江亭で過ごした時間は、何かを解決するためのものではなく、ただ「ここにいてもいい」という安らぎを分かち合うための、静かな儀式だったのかもしれない。
チェックアウトの時、バックミラーに映る別府湾が、まだ少しだけ青かった。
- 屋上露天風呂へは、少し早起きして、風がまだ眠っている時間に行くのがおすすめ。
- 5月下旬なら、ホテル周辺に咲くバラや藤の香りを、深呼吸して確かめてみて。