「私のサンダル、どこいったの!?」
「待って、私のサンダルどこ? さっきまでここにあったはずなのに!」
「いや、左足に履いてるじゃん。マジでどうなってんの? 視力検査行ったほうがいいよ」
「えっ」
「信じられないんだけど。この状態で盆踊り行こうとしてたの? 想像しただけでありえないでしょ」
「うるさいなあ! だって、浴衣の裾が長くて足元が見えなかったんだもん。誰だってそうなるよ!」
「言い訳がすぎる。っていうか、その髪型、準備に三十分もかけたわりに、もう崩れてない? むしろ最初から崩れてた気がする」
「あー!もういい、誰が一番遅いか賭けようよ。負けた人が後でコンビニのアイス奢りね!」
畳の上で誰かが派手な音を立てて転がり、弾けるような笑い声が部屋の中を飽和させる。空気が震え、賑やかな喧騒が波のように押し寄せては引いていく。私たちはいつもこうだ。誰かが誰かを容赦なくいじり、それに怒ったふりをして、結局はみんなで腹を抱えて笑う。それが私たちの、一番心地いい周波数なのだ。
潮風と畳が溶け合う、青い静寂の部屋
シーサイドホテル美松大江亭の海側和室に足を踏み入れたとき、まず鼻をくすぐったのは、い草の青い香りと、かすかに混じる潮風の匂いだった。裸足で踏みしめる畳は、少しだけざらついていて、それでいてひんやりとした心地よい感触。指先からじわじわと、この場所が持つ緩やかな時間が流れ込んでくる。窓の外には別府湾がどこまでも広がっていて、八月の強い陽光が海面に反射し、白い天井にプリズムのような光の筋を踊らせていた。その光は、私たちが騒ぐたびに不規則に揺れ、まるで私たちの喧騒に合わせた即興のダンスを披露しているかのようだ。
部屋の隅にある源泉掛け流し温泉の洗い場へ向かう数歩の間、心地よい緊張がほどけていく。お湯に浸かると、特有の硫黄の香りが立ち上がり、肌にまとわりついていた夏の湿気が、ゆっくりと湯気に溶けて消えていった。一人で訪れたときの静寂とは違う、壁一枚向こうで誰かが笑っているという気配。その温度感が、孤独を心地よい充足感へと塗り替えていく。私たちは、正しい答えよりも、心地よい間違いを探しに来たのかもしれない。盆踊りでリズムを間違え、独りだけ変な方向に回転し始めた友人の姿。提灯をなぎ倒しそうになったその瞬間、私たちは同時に吹き出した。完璧なステップなんてどうでもいい。むしろ、そのズレこそが、この旅のハイライトになる。この旅の不便さや、準備のドタバタさえも、後で思い出すときの心地よいノイズになるだろうな、と感じた。
湯気に溶けていく、深夜の独り言
「……なあ、ぶっちゃけ、今回ここにして正解だったな」
屋上露天風呂。夜風が肌をなで、上がりかけた白い湯気が視界をぼかしている。昼間の喧騒が嘘のように、声のトーンが自然と落ちていた。耳に届くのは、静かに溢れ出すお湯の音と、遠くで鳴く虫の声だけだ。
「だよね。あの海が見える感じ、なんか落ち着く」
「正直、来る前は喧嘩して終わると思ってたけど。まあ、サンダル履き忘れるくらいのやつと一緒にいられるなら、人生余裕だわ」
「ひどいな。でも、まあ……そうかもね」
お湯の温度が体温と重なり、自分と世界の境界線が消えていく。誰かが深くため息をつき、それが夜の闇に溶けて消えた。私たちは、お互いの弱さをさらけ出すのが苦手だ。だから、こうして視線を合わせず、ただ同じ方向にある別府の夜景を眺めながら、断片的な言葉を投げ合う。その不完全な会話こそが、今の私たちにとって一番正直なコミュニケーションだった。答えなんて出なくていい。ただ、この温かいお湯と、隣に誰かがいるという事実だけで、十分すぎるほどだった。
遠くで小さな花火が上がり、瞼の裏に鮮やかなオレンジ色の残像が静かに揺れていた。
- 屋上露天風呂で、夜風に当たりながらぼーっと別府湾を眺めて思考を止めてほしい。
- 和室の畳に寝転び、天井に揺れる光の粒を数えて、贅沢に時間を溶かしてほしい。