← 戻る ホテルニューツルタ

濡れたタオルが畳に落ちる音

濡れたタオルが畳に落ちる音

なぜ、この場所を家族の目的地に選んだのか?

指先に触れる空気は、しっとりと重い。六月の別府は、街全体が大きな蒸し器に包まれているかのような、独特の湿度をまとっていた。ホテルニューツルタのロビーに足を踏み入れた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、長い年月を経て木造建築に染み込んだ、落ち着いたお香とわずかな硫黄の匂いだった。私たちは、あえて「和室ラージ」を選んだ。五十平方メートルという数字上の広さよりも、子供たちがどれだけ自由に転がり、声を上げられるかという、物理的な「余白」が重要だったからだ。

畳の上に荷物を広げると、上の子がすぐにどさりと身を投げ出した。い草の乾いた香りと、子供の汗の匂いが混ざり合う。それは決して洗練された「優雅な旅」の風景ではないけれど、靴を脱ぎ、裸足で床の温度を直接感じることができる安心感があった。リビングの端から端まで、子供が全力で走っても壁にぶつかるまでに数秒の猶予がある。そのわずかな時間の間に、親である私たちは「ああ、もういいか」と諦め混じりの微笑みを浮かべることができる。完璧に整えられたモダンなホテルよりも、少しだけ隙のあるこの畳の柔らかさが、日常で張り詰めていた私たちの心をゆっくりと解きほぐしてくれた。家族で過ごす時間とは、お互いの境界線が曖昧になり、心地よくかき乱されること。この部屋の静寂は、完全な無音ではなく、子供たちの小さな呼吸や衣擦れの音が心地よいリズムとなって響く、そんな温かな質感を持っていた。

子供たちが一番心を奪われたのは、どんな瞬間だったか?

窓の外に広がる別府湾は、雨に煙って淡いグレーブルーに染まっていた。下の子が冷たい窓ガラスに額を押し付け、「ねえ、お空からお風呂が出てるよ」と小さく呟いた。視線の先には、街のいたるところから立ち昇る白い湯気。それはまるで、街という巨大な生き物が静かに呼吸をしているかのように見えた。子供にとって、温泉街の景色は大人が考える「観光」ではなく、不思議な魔法にかけられた世界に迷い込んだような体験なのだろう。

私たちは、あえて予定を詰め込まない贅沢を選んだ。ホテルから歩いてすぐの喫茶ピリカで、湯気の立つ飲み物と甘いお菓子を囲んだときのことだ。子供が不意に「温泉はどうして熱いの?」と問いかけた。その純粋な質問と、私たちが答えに窮して顔を見合わせた瞬間のあいだに、心地よい「間」が生まれる。すぐに正解を教えるのではなく、一緒に首を傾げて不思議がる時間。それこそが旅の本当の醍醐味な気がした。

その後、ホテルに戻って展望大浴場へ向かった。湯船に浸かった瞬間、子供たちの目が丸くなる。視界いっぱいに広がる街のパノラマと、肌にまとわりつく源泉掛け流しの濃厚な温度。お湯の中で足をバタつかせ、白い水しぶきを上げる子供たちの笑い声が、高い天井に反響して心地よい残響を作る。大人は静かに目を閉じ、ただお湯の重みと浮力に身を任せていたいけれど、子供たちの賑やかさが、かえってこの空間を生き生きとした生命力で満たしていく。彼らにとっての旅の正解は、ガイドブックにある名所ではなく、お湯の中で誰よりも高く水しぶきを上げられたことや、畳の上で誰よりも長く寝転がっていたこと、そんな些細な「勝ち取り」の連続にあるのだろう。

旅を終えて、心に澱のように残っているものは何か?

チェックアウトの朝、雨は上がっていたけれど、空気にはまだ紫陽花の色のような、しっとりとした青い気配が残っていた。波止場神社まで歩く道すがら、子供たちが道端に咲く紫陽花を指差して、どれが一番濃い色か競い合っていた。誰かが転んで膝を擦りむき、誰かがお気に入りの靴を泥で汚す。そんな小さなトラブルの積み重ねが、後になって「あの時は大変だったね」と笑い合える記憶の種になる。

ホテルニューツルタを後にするとき、ふと振り返ると、そこには百年以上の時間を経て、数え切れないほどの家族の笑い声と涙を吸い込んできた建物が静かに立っていた。私たちは、何か特別な正解を見つけたわけではない。ただ、家族という不器用なチームで、雨の日の別府を歩き、同じ湯気に包まれ、同じ畳の上で眠った。その共有された「体温」こそが、日常に戻ったあとも、ふとした瞬間に心を温めてくれる。記憶とは、鮮明な写真のようなものではなく、あの時の湿った風の感触や、湯上がりの肌の火照り、子供の寝顔に触れたときの柔らかさといった、断片的な感覚の集積なのだと思う。私たちは、ただそこにいた。それだけで十分だったという気がする。

子供の小さな寝息が、静かな部屋に溶けていく。

  • 波止場神社まで、あえて雨の中をゆっくり歩いて、紫陽花の色の濃淡を子供と一緒に探してみてください。
  • 喫茶ピリカで、地元の人に混じって、ただぼーっと街の湯気を眺めながら甘いものを味わう時間を。