← 戻る 亀の井ホテル 別府

廊下の端で、誰かが小さく笑った

廊下の端で、誰かが小さく笑った

10月の別府は、しっとりと湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。かすかに漂う硫黄の香りが、ここが温泉の街であることを静かに教えてくれる。JR別府駅からホテルまでわずか5分。大人には短い距離だが、子供たちにとっては未知の領域へと踏み出す大冒険の道のりらしい。次男の片方の靴が脱げかかったまま、彼は全力で前へと駆け出していく。その不器用で愛らしい後ろ姿を追いかけながら、私たちは「急がなくていいよ」という、秋の風にさらわれて消えていく言葉を何度も繰り返していた。


湯船に体を沈めた瞬間、自分と世界の境界線がふわりと溶けていく。心地よい温度が、日々の喧騒で凝り固まった肩の力を、ゆっくりと、けれど確実に解きほぐしていく。子供たちが上げる賑やかな水しぶきと、弾けるような笑い声。それが不思議と心地よいリズムとなって耳に届く。今の私たちは、大きな水溜まりに集まった小さな雫のようなものかもしれない。ただそこに在るだけで、すべてが満たされていく充足感に包まれていた。
3階のキッズコーナーから聞こえてくる、乾いた笑い声と賑やかな喧騒。スーパーボールが硬い床に跳ねる「パチン」という鋭い音。それは、大人がいつの間にか忘れていた、単純で純粋な興奮の周波数だ。誰かが勝ち誇ったように叫び、誰かが悔しそうに地団駄を踏む。その不協和音が、亀の井ホテル 別府という空間に溶け込み、家族の旅を彩る心地よいBGMとなって響き渡っていた。
朝食のビュッフェに並ぶ、色鮮やかな地元の食材たち。湯気を立てる料理から漂う出汁の香りが、眠っていた五感を優しく呼び覚ます。大分ならではの深い味わいが、口の中で波のように広がっていく。温かい料理が胃に落ちたとき、心の中の冷たい部分までじわりと溶けていくのがわかった。長女が口の周りをソースだらけにして笑っている。それを拭う指先に伝わる、確かな幸福の温度。「美味しいね」と頷き合う瞬間、心まで満たされていく。
高層階の客室から見下ろす別府の街は、秋の柔らかな光に浸っていた。10月の西日が街の輪郭を淡くぼかし、遠くに見える白い湯煙が空へと溶けていく。窓ガラスに結露した小さな水滴が、表面張力に耐えきれず、ゆっくりと筋を作って流れ落ちる。その静かな速度に合わせるように、私の思考も凪いでいく。ただ眺めているだけで、時間が贅沢に流れていく感覚。この静寂こそが、旅の最高の贅沢だった。
駄菓子コーナーで選んだ、色鮮やかなキャンディーの袋。安っぽいプラスチックの素材を破る時の、あの独特な、少し耳に刺さるような乾いた音。子供たちが真剣な表情で「どれにするか」を相談し合っている。その小さな手のひらに握られた、わずか数十円の宝物。それは、どんな高級な土産物よりも、彼らにとって価値があるものなのだろう。その小さな満足感が、旅の記憶に深く、鮮やかに刻まれていく。
トリプルルームの広い空間に、ようやく静寂が訪れる。もぞもぞと布団に潜り込む子供たちの呼吸が、次第にリズムを合わせて重なっていく。誰かが寝言を言い、誰かが無意識に隣の人の腕を掴んでいる。この賑やかで、少しだけ混沌とした空間が、今は世界で一番安全な場所であると感じる。お互いの体温を分かち合いながら、私たちは深い眠りの海へとゆっくりと沈んでいった。

窓の外では、秋の夜風が静かに街を撫でていた。

  • 3階のキッズコーナーで、お子様と一緒にスーパーボールすくいを。大人が本気で取り組む姿に、子供たちはきっと笑ってくれます。
  • 朝食ビュッフェでは、地元の食材をゆっくりと。お子様と一緒に「どっちが美味しいか」を話し合う時間が、最高の思い出になります。