← 戻る 別府温泉 杉乃井ホテル

光が消えてから、音が届くまでの空白

光が消えてから、音が届くまでの空白

8月の別府は、空気が濃い。肌にまとわりつく湿った風は、まるで温かい毛布のように重く、街全体の時間がゆっくりと溶け出しているような錯覚に陥る。別府温泉 杉乃井ホテルに足を踏み入れた瞬間、外の熱気がふっと消え、凛とした冷房の心地よさと、鼻腔をくすぐる硫黄の香りが私を迎えてくれた。その香りは、ここが日常から切り離された「温泉の街」であることを静かに告げていた。

正直に言えば、私は「完璧な家族旅行」なんていう幻想はとうに捨てている。子供たちが静かに景色を愛で、大人が優雅にワインを傾ける。そんな絵葉書のような時間は、私たちの家族には似合わない。実際、チェックインしてすぐに次男がロビーの厚い絨毯に足を滑らせて派手に転び、長女は「お腹が空いた」と三回、リズム良く繰り返した。けれど、そのくらいの騒がしさがあるほうが、旅という実感が湧いて安心する。誰かが誰かと言い合い、誰かが飲み物をこぼす。そんな不協和音さえも、ホテルの高い天井に吸い込まれていくと、不思議と心地よい家族の旋律に聞こえてくるのだ。

デラックスルームのふかふかのベッドに身を投げ出したとき、ふと心地よい疲労感に包まれた。私たちは、完璧さを求めるのではなく、ただ一緒にいるという不器用な時間を共有しに来たのだ。夜、花火を眺めていたとき、あることに気づいた。光が夜空に広がってから、あの重い音が胸に届くまでには、数秒の空白がある。そのラグこそが、心地よい。家族というのも、きっと同じなのだと思う。誰かが何かを言い、相手がそれに気づくまでの時間差。期待していたことと、実際に起きたことのズレ。その隙間にこそ、本当の記憶が入り込む余地がある。私たちは、その空白を埋めるために旅をしているのかもしれない。

家族の記憶に溶け込んだ、5つの断片

浴衣の帯 — 糊のきいた生地が肌に触れる少し硬い感触と、もどかしい締め心地。結び目がうまく作れず、何度も解いてはやり直した指先のもどかしさが、かえって旅の始まりを実感させた。次男がそれを「スーパーヒーローのマント」だと言い張って廊下を駆け抜けたとき、帯はひらひらと情けなく揺れていた。最初に気づいたのは、帯を締め直してほしいと泣き出した次男だった。

宙湯の湯気 — 海抜220メートル。視界を白く染める温かい霧の向こうに、別府湾の深いブルーがぼんやりと溶け出している。お湯に浸かった瞬間、皮膚の表面がふわりと緩み、自分が空に浮いているのか、水に溶けているのか分からなくなる浮遊感。最初に気づいたのは、「雲の中で泳いでるみたい!」と歓声を上げた長女だった。

藁焼きの香ばしさ — 和ダイニング星の、6メートルもある高い天井に漂う、鋭くも懐かしい煙の匂い。古民家の古材が放つ乾いた木の香りと、目の前でパチパチと爆ぜる火の音。その音が子供たちの好奇心を刺激し、食事の内容よりも火の様子に釘付けになっていた。最初に気づいたのは、煙の匂いに鼻をひくつかせた私だった。

花火の振動 — 夜空を塗りつぶす鮮やかな光。その数秒後、空気が震え、心臓の奥まで届くような重い衝撃波。光と音の間に横たわる、あの奇妙な静寂が、家族の距離をぐっと近づけてくれた。長女が私の手を強く握りしめ、次男が驚いて飛び上がった。その振動が、家族全員の鼓動を一つに合わせた気がした。最初に気づいたのは、音に驚いて肩をすくめた次男だった。

冷えたスイカの雫 — 喉を焼くような暑さの中で口にした、氷のように冷たい果肉。頬を伝う甘くて粘り気のある汁と、種が皿に当たる小さな音。赤い果肉の色が、さっきまで見ていた花火の残像と重なって見えた。それを口いっぱいに頬張ったときの、脳まで冷えるような快感。最初に気づいたのは、「このスイカ、花火みたい!」とはしゃいだ長女だった。

また来年も、この愛おしい騒がしさを予約しよう。

  • 宙湯では、空の色が深い紺に染まるまで、ただお湯の温度に身を任せて静寂を味わってほしい。
  • 和ダイニング星の藁焼きは、料理が届く前の「パチパチ」という火の音を、子供と一緒に楽しむのがおすすめだ。