← 戻る 別府温泉 杉乃井ホテル

午前3時の硫黄の香りと、誰かの笑い声

午前3時の硫黄の香りと、誰かの笑い声

肩からずり落ちそうになるバッグのストラップを何度も直して、ようやく辿り着いた別府温泉 杉乃井ホテル。足元のカーペットが驚くほど厚く、一歩踏み出すたびに心地よく靴を飲み込もうとする感覚に、旅の緊張がふわりと解けていく。二月の空気は肌を刺すように冷たいけれど、ロビーに足を踏み入れた瞬間に鼻腔をくすぐる、あの濃厚な硫黄の匂い。それが「あぁ、本当に温泉地にやってきたんだ」という、心躍る合図になった。

私たちはこの旅で、あえて「完璧で洗練された大人」を演じようと密かに誓い合っていた。「落ち着いた振る舞いで、贅沢な空間をスマートに使いこなそう」なんて。けれど、そんな気取りたがりな計画は、チェックインしてわずか十分で脆くも崩壊した。だって、この場所はあまりにも広大で、開放感に満ち溢れている。私たちの小さなプライドなんて、別府の街を包む真っ白な湯煙に飲み込まれて、簡単に吹き飛ばされてしまったから。凍った土を無理やり押し上げて咲く梅の花のように、私たちの旅も、洗練とは程遠い、泥臭くて不器用な方向に、けれど鮮やかに花開いていった。

完璧な大人を卒業して試した4つの挑戦

噴水ショーで「最高の一枚」を狙う
三脚まで持ち出し、映画のワンシーンのような構図で撮ろうと意気込んだ。結果、予想外の方向から水しぶきがレンズに直撃し、撮れたのはぼやけた光の塊だけ。けれど、濡れた顔で顔を見合わせて爆笑したあの瞬間こそが、何よりの正解だった。

和ダイニング星で「全メニュー制覇」に挑む
天井が高く、心地よい笑い声が反響する空間。藁焼きの香ばしい匂いに誘われ、皿を高く積み上げた。結果、デザートが出る頃には全員が戦意喪失。お腹がはち切れそうなまま、「誰が一番多く食べたか」という不毛な言い合いに発展した。

宙湯で「静寂と瞑想」を試みる
海抜二百五十メートル。空と海が溶け合う青い境界線を眺め、精神統一に浸ろうとした。結果、隣で友人が「あつー!」と叫びながらお湯に飛び込んだせいで、瞑想はわずか三秒で終了。でも、その騒がしさが、不思議と心地よかった。

地図を捨てて「直感のまま」に歩く
あえて地図を閉じ、路地裏を迷路のように進んだ。結果、目的地とは真逆の方向へ迷い込んだが、地元の人しか知らないような、静かに湯煙が立ち上る路地を見つけた。迷った時間こそが、この旅の最大の贅沢だった気がする。

旅の記憶を刻むスコアボード

結局、一番価値があったのは、豪華な設備よりも、デラックスルームのベッドで誰が一番情けない格好で寝ているかを言い合った深夜の時間だった。宙湯から見た景色は確かに圧倒的だったけれど、それ以上に、和ダイニング星の古材のざらついた質感や、浴衣の袖がもたつくもどかしさといった、小さな不便さが愛おしく記憶に残っている。計画通りにいかなかったこと、かっこつけられなかったこと。そういう「失敗」の集積が、結果的にこの旅を一番「私たちらしい」ものにしてくれた。贅沢な空間に身を置きながら、中身は相変わらずで、それがたまらなく心地いい。

夜明け前の深い青に染まった海を眺めながら、冷えた指先を温め合ったあの温度だけは、ずっと忘れない。

  • 宙湯から見える地平線が、海と空の境界を失う瞬間まで、あえて誰とも喋らずに眺めてみて。
  • 和ダイニング星の古材にそっと触れてみて。長い時間を経た木の温度が、心を緩めてくれるから。