← 戻る 道後舘

畳の上で、誰かが小さく寝息を立てていた

濡れた回廊に溶け出す、深い青の残像

指先に触れる空気はしっとりと重く、雨に濡れた木の香りが静かに鼻をくすぐる。道後舘の廊下を歩けば、丹念に磨き上げられた床が鏡のように外の景色を映し出し、歩くたびに淡い色彩が足元で揺れていた。庭に咲き誇る紫陽花の青は、雨粒を纏うことでさらに深く、濃い色調へと塗り替えられている。上の子が「あっちにもっと青いのがあったよ」と、小さな手で方向を指し示す。その指先の先では、雨粒を湛えた花びらが重力に耐えかねて、わずかに、けれど確信を持って揺れていた。この景色を眺めていると、家族という個別の輪郭が、濡れた和紙に落とした墨のように、ゆっくりと周囲に滲み出していく感覚に囚われる。誰が誰であるかという境界線が曖昧になり、ただ「今、ここに一緒にいる」という事実だけが、静謐な空間に広がっていく。旅というものは、自分という個体を一度ぼかして、大切な誰かと混ざり合うための儀式なのかもしれない。雨の日の道後舘は、そんな心の調律にふさわしい、完璧な調光を用意して私たちを待っていてくれた。

高い天井に舞う、無垢な笑い声と水の律動

高く開放的な天井に、下の子の甲高い笑い声が心地よく反響している。ロビーに流れる水の音は、一定のリズムを刻みながら空間の余白を丁寧に埋め、訪れる者の心を凪の状態へと導いていた。子供たちが弾むように走り回る足音が、厚い絨毯に吸い込まれては、また別の場所で軽やかに弾ける。その不規則なリズムが、静謐な空間に不思議な生命力を吹き込んでいた。ウェルカムドリンクのオレンジジュースがグラスに注がれる、あの「トクトク」という小さな音が、旅の始まりを告げる祝祭の合図のように聞こえた。大人がつい「静かにしなさい」と口にするけれど、その嗜める声さえも、この場所の寛容な静寂に飲み込まれ、心地よい生活のノイズへと変わっていく。耳を澄ませば、遠くで誰かが交わす穏やかな会話や、浴衣の衣擦れの音が幾重にも重なり合い、一つの大きな組曲のように響いていた。完璧な静寂よりも、こうした小さな体温を感じる音が混ざり合っている方が、ずっと安心できる。私たちはこの心地よい喧騒の中で、自分たちが「家族」という一つのチームであることを、改めて思い出していた。

い草の冷徹さと、肌を包む湯の抱擁

裸足で踏み出した畳の感触は、ひんやりとしていて、それでいてどこか懐かしい記憶を呼び覚ます。い草の清々しい香りが足裏から伝わり、日常で強張っていた肩の力がふっと抜けていく。浴衣に着替えるとき、上の子が「帯がうまく結べない」と不満げに口を尖らせ、下の子は大きな浴衣をマントのように羽織って、部屋の中を勇ましく駆け回っていた。その微笑ましい光景を眺めながら、私は子供の温かい頭をそっと撫でる。指先に伝わる髪の柔らかさと、畳の冷たさという鮮やかなコントラストが、今この瞬間のリアリティを強く教えてくれる。庭園露天風呂付の客室で湯に浸かると、絶妙な温度のお湯が、疲れた肌の表面を優しく、けれど深く包み込んだ。水面に浮かぶ雨粒が小さな波紋を作り、それがゆっくりと消えていく。その波紋のように、日々の生活で溜まった小さな疲れや、親としての焦燥感が、お湯の中に溶け出していく。何かを解決しようとするのではなく、ただ浸かっているだけでいい。欠けている部分があるからこそ、そこにお湯が満たされる。その充足感は、言葉にするのが難しい、体温に近い親密な感覚だった。

太陽を凝縮した黄金色と、分かち合う幸福

口の中に広がるのは、愛媛の太陽をそのまま凝縮したような、鮮やかなオレンジの酸味と濃厚な甘さ。冷えたジュースが喉を通るたび、体に心地よい刺激が走り、細胞のひとつひとつが目覚めていく。会席料理のひと皿ひと皿には、地元の素材が芸術的なまでに丁寧に盛り付けられていた。下の子が「これ、お星さまの形!」と、料理の繊細な飾り付けに目を輝かせる。私たちは、誰が一番多く食べるかという、ささやかで、けれど至極真剣な競争を繰り広げた。最後の一切れを誰が食べるかで小さな揉め事が起きたけれど、結局は半分に分けて、お互いの口に運び合った。そのとき、料理の味以上に記憶に刻まれたのは、食卓を囲む家族の、少しだけ緩んだ、幸福な表情だった。味覚というのは、記憶と強く結びついている。数年後、ふとオレンジの香りを嗅いだとき、私はこの道後舘の静かな夜と、子供たちの賑やかな笑い声を鮮明に思い出すだろう。それは、どんな高級なレシピにも書かれていない、私たち家族だけの特別な調味料のようなものだ。お腹が満たされると、心の中にある空白も、自然と温かい何かで満たされていくのが分かった。

樹齢三百年の記憶と、雨上がりの浄化

雨が上がり、湿った土の匂いが濃くなった庭園をゆっくりと歩く。そこには樹齢三百年の縁起松がどっしりと構え、悠久の時を経て空を仰いでいた。古い木の香りと、雨上がりの澄み切った空気が混ざり合い、肺の奥まで浄化されるような心地よさに包まれる。ふと、下の子が足を止めて、「ねえ、ホタルのスイッチはどこにあるの?」と不思議そうに尋ねた。小さな光が舞うのを見て、それを電気製品のように考えたらしい。その突飛な質問に、私たちは思思わず顔を見合わせて笑った。正解を教えるのではなく、「きっと森の妖精さんがつけているんだよ」と、優しい嘘をつく。そんな、大人が見れば意味のない会話こそが、旅の本当の目的だったのかもしれない。夜の帳が下りる頃、道後舘の灯りが柔らかく灯り、周囲の闇を優しく押し返していた。心地よい疲労感とともに、ふかふかの布団に潜り込む。隣で規則正しい寝息を立て始めた子供たちの気配を感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。明日になればまた、日常という名の戦場に戻るけれど、この香りと静寂だけは、心の一番深いところに大切に仕舞っておこうと思う。

窓の外で、最後の一粒の雨が、静かに葉からこぼれ落ちた。

  • ロビーのウェルカムドリンクコーナーで、子供と一緒に地元の瑞々しい味をゆっくりと堪能してほしい。
  • 浴衣に着替えたら、あえて目的を決めずに館内の回廊を歩き、古い木の香りに身を任せてみてほしい。