← 戻る 道後プリンスホテル

指先が触れるまで、あと数センチの距離

ある午後の、予約ボタンの前で迷っているあなたへ。

2月の松山は、きっと想像よりもずっと冷たい。でも、その冷たさがあるからこそ、誰かの体温が、あるいは温かいお湯の温度が、切ないほどに心地よく感じるのかもしれない。そんな予感がして、この手紙を書いています。あなたと一緒に、あの静かな冬を過ごしたい。

湯気に溶けゆく、二人の輪郭

松山に降り立った瞬間、肺の奥まで突き刺さるような冷たい空気に、鼻の奥がツンとした。冬の道後は、凛とした静寂に包まれている。そんな季節に、私たちは道後プリンスホテルへと足を向けた。ロビーに足を踏み入れた瞬間、外の寒さを忘れさせるような温かな空気が、凍えた体を優しく包み込んでくれた。道沿いに咲き始めた梅の花が、冷え切った空気の中で静かに、けれど力強く香っている。その控えめな香りは、今の私たちの、少しだけぎこちない距離感に似ている気がして、私はわざと歩幅を狭め、あなたの影に寄り添った。

館内で浴衣に着替えると、生地が擦れる「シュルシュル」という乾いた音が、静まり返った廊下に心地よく響く。私は裾を捌くのが慣れず、何度か足をもつれさせそうになった。「危ないよ」と、あなたが隣で小さく笑う。その柔らかな声が、冷え切った指先にじんわりと熱を運んでくる。不格好で、けれど愛おしい、二人だけの時間。

館内の「湯めぐり」に身を任せ、特に「みかんボールの湯」に浸かったとき、ふと思った。この滑稽なほどに愛らしい光景が、張り詰めていた心をふっと緩めてくれる。お湯が肌を包み込むとき、皮膚の境界線が曖昧になり、隣にいるあなたの輪郭まで溶けて混ざり合っていくような錯覚に陥る。湯気で白く霞む視界の中で、あなたの瞳だけが鮮明に見えた。熱い湯から上がり、肌を撫でる冷たい風。その鮮やかなコントラストが、今ここに一緒にいるという事実を、確かな皮膚感覚として刻みつけてくれた。

畳の上の、静かな空白に寄せて

和モダンツインの部屋に戻り、照明を落とすと、空間に心地よい空白が生まれた。い草の香りがかすかに漂う畳の上に座り、ゆっくりと呼吸を合わせる。足先が、ほんの少しだけ触れた。わざとではないけれど、避けるでもない。その数センチの距離に、言葉にできないほどの感情が詰まっているように感じた。私たちは、正解を出すための会話ではなく、ただそこに在るための沈黙を共有していた。

途中で口にした、みかんの風味を纏った温かいお菓子。舌の上でゆっくりと溶ける濃厚な甘さが、冷え切っていた内側からじんわりと解かしていく。味覚というのは、記憶に直結している。いつか数年後、ふとした瞬間にみかんの香りを嗅いだとき、私はこの部屋の静寂と、隣にいたあなたの穏やかな横顔を思い出すのだろうか。そう思うと、この不完全な静けさが、何よりも贅沢な宝物のように思えてきた。

ベッドのシーツが肌に触れるひんやりとした感触と、その下に潜り込んだときの、包み込まれるような安心感。私たちはまだ、お互いのすべてを理解し合えたわけではないし、これからも分からないことが多いだろう。けれど、同じ温度の布団の中で、同じリズムで呼吸をしている。それだけで十分なのだと、この場所で気づかされた。孤独は消えるものではなく、ただ、誰かと隣り合わせに持っておくことができるものなのだ。夜の静寂が、私たちの間にそっと降り積もっていく。

湯上がりの微睡みの中、ある部屋の午後より。

  • 2月の梅まつりの時期、あえて早朝の冷たい空気の中を散歩し、その後に温かい湯に浸かる贅沢を。
  • 館内の湯めぐりでは、目的を決めず、その時の気分で「温度」を選んで回ってみるのがおすすめ。