← 戻る ザ・リッツ・カールトン福岡

読みかけの本を閉じたとき、隣に君がいた

「ここ、本当にいいのかな」

「ここ、本当にいいのかな」
君がそう呟いたとき、指先は10月の冷たい外気に触れて、わずかに白くなっていた。地下鉄天神駅から歩いて数分。街の喧騒が、厚いガラス一枚で遮断される瞬間の、あの耳が詰まるような静寂。私は答えを持たず、ただ、ザ・リッツ・カールトン福岡のロビーに敷かれた、深い海のような柔らかな絨毯に足を取られそうになった。
「わからない。でも、今の温度なら、ちょうどいい気がする」
私たちは、正解を探すのをやめて、ただそこに流れる贅沢な空気に身を任せることにした。

溶け合う境界線と静寂の温度

部屋に入ってまず触れたのは、裸足に伝わるタイルのひんやりとした、けれどどこか心地よい温度だった。デラックススイートという贅沢な空間は、単に広いということではなく、ベッドから窓辺まで、ゆっくりと歩いて自分の足音が消えていくまでの「間」があるということなのだと思う。和の情緒を現代的に解釈した壁の質感は、指でなぞるとわずかにざらつきがあり、それがかえって、この都会の隠れ家に自分が存在しているという確かな実感をくれた。空間を包むのは、かすかに白檀を思わせる落ち着いた香り。それが、張り詰めていた心をゆっくりと解きほぐしていく。

窓の外に広がる博多湾の夜景を眺めていると、ふと、濡れた和紙に墨を落としたときの情景が浮かぶ。深い紺色の海の上に、街の灯りがゆっくりと、けれど確実に滲み出していく。それは、もともと別々の場所で生きていた二つの色が、ゆっくりと境界線を失い、一つの深い色に溶け合っていく過程に似ていた。私たちは、完璧に理解し合えるなんて思っていない。ただ、この空間に漂う静けさが、お互いの輪郭を少しだけ曖昧にしてくれる。それが心地よいと感じるのは、きっと、無理に空白を埋めようとしなくていいからだろう。

サイドテーブルに置かれた地元の秋のお菓子を口に運ぶ。控えめな甘さと、季節の香りが舌の上で静かにほどけていく。そんなとき、君が膝の上で読んでいた本を不意に落とした。バサリという乾いた音が部屋に響き、私たちは同時に顔を見合わせて、どちらからともなく小さく笑った。そんな、取るに足るはずのない、けれど誰にも見せる必要のない親密な瞬間こそが、この旅で一番大切な記憶になる。

厚手のデュベの下に潜り込むと、体温がゆっくりと共有され、心地よい重みが体を包み込む。外は18度ほどの秋の夜。けれど、ここにあるのは、誰にも邪魔されない、二人だけの完結した世界だ。もしかすると、私たちはまだ、お互いの歩幅を合わせる方法を模索している最中なのかもしれない。けれど、この静寂の中にいれば、言葉にできない不安さえも、心地よいリズムの一部に変わる。ないものを探すのではなく、今ここにある空白を、ただ一緒に眺めていればいい。

グラスに溜まった夜景の光が、琥珀色に揺れている。

  • 明日の朝は、少しだけ早起きして、大濠公園までゆっくり散歩してみない?
  • ラウンジの隅で、お互いの読みかけの本を交換して読んでみようよ。