← 戻る 桜 River Side Stay 下呂温泉

湯気に消えた、名前のない時間

湯気に消えた、名前のない時間

境界線に立つ、まだ不器用な距離感

下呂駅に降り立った瞬間、頬を鋭く刺した11月の風に、思わず肩をすくめた。指先の冷えを逃がすようにコートのポケットの中で手をもぞもぞと動かす。隣を歩く君との間には、ちょうど手のひら一枚分ほどの空白があり、それが心地よい距離なのか、それとも埋められない寂しさなのか、当時の私には判別がつかなかった。私たちはまだ、都会の喧騒という外側のリズムを身にまとったままだった。

桜 River Side Stay 下呂温泉のロビーに足を踏み入れた途端、外の冷気が嘘のように消え、誰かの体温に近い柔らかな温もりが肌を包み込む。空間に漂うほのかなお香の香りと、遠くで聞こえる控えめなBGMが、張り詰めていた神経をゆっくりと解いていく。和紙に落としたばかりの二つの墨の滴のように、まだ混ざり合わず、それぞれが独立した輪郭を持ってそこに在る。私たちはまだ、お互いの心地よい周波数を探っている最中だった。そんな、少しだけ緊張した、けれど期待に満ちた静寂が、この旅の始まりだった。

静寂に溶け出す、歩幅のシンクロニシティ

案内された客室へと向かう廊下には、どこか懐かしい檜の香りが漂っていた。足元の絨毯が歩くたびに微かな足音を吸収し、ロビーでの硬い緊張がゆっくりと、けれど確実に解けていくのが分かる。照明の落とし方が、私たちの歩く速度を自然と緩めてくれた。ここは、外の世界から切り離された緩衝地帯なのだと感じる。

ふと、隣を歩く君の肩が私の肩に軽く触れた。ほんの一瞬の接触だったけれど、その温もりが言葉よりも雄弁に「もう急がなくていい」と伝えてくれた気がする。墨の輪郭がゆっくりと滲み出し、隣の色と重なり始める瞬間の、静かな安心感。私たちは、自分たちが思うよりもずっと、同じリズムを刻んでいたのかもしれない。

密室という名の聖域、五感で分かち合う時間

ドアを開けると、レトロモダンな意匠が光る静謐な空間が広がっていた。ダブルルームの適度な密度は、二人で過ごすにはちょうどいい。セミダブルのベッドに体を沈めると、パリッとしたリネンの感触が心地よく、外の寒さを完全に遮断してくれる。この小さな空間に、私たちのすべてが収まっているような感覚に、心地よい充足感を覚えた。

夕食にいただいた、ドイツ人シェフ・エルウィンさんが手がけたスペアリブの味は、今でも鮮明に思い出せる。濃厚なソースのコクと肉の旨みが口いっぱいに広がり、それまでの空腹感さえも贅沢な調味料に変わる。添えられたジャーマンポテトのホクホクとした食感に、私たちは無防備な笑顔を交わし合った。レストランの壁にあるシェフの似顔絵と乾杯しようとして、角度を間違えてただの壁を撮ってしまったとき、君が小さく吹き出した。その笑い声が、部屋の空気をふわりと軽くしてくれた。

その後、純生貸切温泉に浸かったとき、アルカリ性の単純温泉特有のとろりとした質感が肌を包み込んだ。まるで薄い絹の膜を身体にまとっているような、滑らかなぬめり感。お湯に身を委ねると、身体の芯から力が抜け、思考さえも白い湯気に溶けて消えていく。隣にいる君の呼吸が、お湯の音に混ざって聞こえてくる。言葉を交わさなくても、ただそこに一緒にいるだけでいい。もしかすると、私たちはここで、お互いの孤独という臓器を、静かに分かち合っていたのかもしれない。

飛騨川の煌めきと、静止した時間

翌朝、カーテンを開けると、目の前には飛騨川のきらめきが広がっていた。11月の朝の光は透き通っており、川岸を彩る紅葉の赤や黄色が、水面に淡い色彩を落としている。私たちは二人で、窓辺に並んでその景色を眺めていた。川の流れは絶えず、けれどその営みはどこまでも静かだ。

「綺麗だね」

君がそう呟いたとき、私は君の横顔を見ていた。瞳に映り込む紅葉の色。私たちは、この旅の後に何が待っているのか、正確な答えを持ってはいない。けれど、今この瞬間、同じ景色を見て、同じ温度の空気を吸っている。墨が完全に滲み、二つの色が混ざり合って新しい一つの色になったとき、そこには元の輪郭はない。けれど、その曖昧さこそが心地よい調和なのだと思う。窓の外では鳥たちが賑やかに鳴き交わし、世界はいつも通りに回っている。けれど私たちの内側には、ここに来る前とは少しだけ違う、穏やかな静寂が根付いていた。

温かいお茶の湯気が、二人の間にゆっくりと溶けて消えていった。

  • 飛騨川の眺望を楽しめるリバービューレストランで、ドイツ人シェフ特製のスペアリブを堪能してほしい。
  • アルカリ性の高い純生貸切温泉で、肌が滑らかになる感覚に身を任せ、心ゆくまで寛いでほしい。