「地図持ってる奴、正直に名乗り出ろ」
「ちょっと待って、本当にこの道で合ってる?」「だって、さっきの看板にはこっちって書いてあったし」「それ、三つ前の角の看板でしょ! 記憶力どうなってんの」
私たちは、春の湿った冷たい風に吹かれながら、互いの不確かな記憶を激しく突き合わせていた。誰かが「もういいから、なんとかなる」と根拠のない自信を口にすれば、即座に「その『なんとかなる』で、さっきから三回同じ道を回ってるんだけど」と鋭いツッコミが入る。笑い声と怒号が混ざり合い、足元に散らばる桜の花びらを誰かが盛大に踏み潰した。それを見た友人が「あ、今の完全にアウト。自然への冒涜だわ」と大げさに嘆き、また全員で爆笑する。そんなくだらないやり取りだけが、今の私たちにとって一番心地いい旅のリズムだった。
時を止めるアンティークの静寂
下呂駅からホテルまで、緩やかな坂道を歩いて15分。登るたびに空気の密度が変わり、肺の奥まで洗われるような、ひんやりとした4月の香りが鼻をくすぐる。辿り着いた下呂温泉紗々羅の門をくぐると、そこには外の喧騒を完全に遮断した、濃密で静謐な時間が流れていた。
ロビーに足を踏み入れた瞬間、空間全体に漂う古い木材と、どこか懐かしいお香のような香りに包まれる。そこに配されたアンティークの家具たちは、長い年月を経て、静かに呼吸しているかのようだ。指先で触れたテーブルの表面には、歳月が刻んだ微細な凹凸があり、そのざらりとした質感が心地よい。私たちは、贅沢な露天風呂付客室に荷物を放り出し、そのまま畳の上に大の字に倒れ込んだ。天井の高さから降りてくる静寂の重みと、い草の清々しい香りが、旅の緊張をゆっくりと解いていく。
特に心に刻まれたのは、客室の露天風呂の温度だ。外気は肌を刺すように冷たいのに、お湯に身を浸した瞬間、芯までじわりと熱が浸透し、強張っていた心まで緩んでいく。岩のゴツゴツとした質感と、耳元で絶え間なく鳴る水のせせらぎ。深夜、ふと目が覚めて歩くタイルの冷たさと、そこからベッドに戻った時の布団の柔らかさ。その鮮やかな対比こそが、旅の記憶を形作る断片になる。
夕食に運ばれてきたA5ランクの飛騨牛は、照明を反射して宝石のように艶やかに光っていた。一口運べば、濃厚な脂が舌の上で形を失い、芳醇な旨味だけが贅沢に残る。添えられた「龍の瞳」というお米は、一粒一粒が凛と立っており、噛むたびに凝縮された甘みが広がった。私たちは、至福の味を前にして、しばらくの間だけ口数を減らした。誰かがわざと多すぎるわさびを乗せて悶絶し、それを私たちが大笑いして迎える。その笑い声が空間に響き、少しだけ遅れて、壁のアンティークな装飾に吸収されていく。そのわずかなタイムラグこそが、気心の知れた友人同士にしか許されない、贅沢な距離感なのだろう。
湯気に溶ける、夜の独白
「ねえ、5年後もこうして集まれるかな」
夜も深まり、大浴場の白い湯気の中で、隣に座っていた友人がぽつりと漏らした。周囲には他の客もいたが、濃い湯気に包まれているせいか、ここだけが世界から切り離された密室のように感じられた。肩まで浸かったお湯の重みが、心地よい圧迫感となって心を開かせる。
「たぶん無理。誰かが結婚して、誰かが海外に飛ばされて、きっとバラバラになるよ」
私の答えに、友人は「ふふっ」と短く笑った。否定はしなかった。ただ、お湯に浸かった足先がじんわりと温かいことだけを確認する。
「でも、今ここでこうして一緒にいじり合ってる時間は、たぶん本物だよね」
「そうだね。まあ、君のパッキングのひどさは本物だったけど」
「ちょっと! それはもういいでしょ!」
結局、私たちは深い話に耐えられず、またいつもの調子に戻った。けれど、その軽やかな会話の裏側で、言葉にならない安心感が、静かに共有されていた。
窓の外、夜の下呂の街灯が、遠い星みたいに滲んでいた。
- 飛騨牛の贅沢な味わいを、あえて誰とも喋らずに堪能すること。
- 朝の静かな時間に、高台から街並みをただ眺めてみる。