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指先が触れたのは、春の温度だった

濡れた指先で触れた湯呑みの、微かな熱から、この旅は静かに幕を開けた。濡れた和紙に落とした墨が、ゆっくりと、けれど確実に外側へ広がっていくように、私たちの距離もまた、言葉にならない速度で溶け合っていた。宇奈月温泉駅から大江戸温泉物語Premium 下呂本館まで歩くわずか五分ほどの道すがら、私たちはほとんど言葉を交わさなかった。けれど、道端に咲く桜が春の淡い風に吹かれて不規則に舞うのを、ただ隣り合って眺めているだけで、肩と肩の距離が数センチだけ縮まる。そのわずかな密着が、今の私たちにとっては何よりも雄弁な会話になっていた。ロビーに足を踏み入れた瞬間、張り詰めていた空気がふっと柔らかくほどけていく。古い杉の木と洗い立てのリネンが混ざり合ったような、どこか懐かしく清潔な香りが鼻腔をくすぐり、強張っていた肩の力が自然と抜けていくのがわかった。案内された露天風呂付き部屋のベッドに深く身を沈めたとき、その心地よい弾力に、私たちは同時に小さく吐息をついた。窓から差し込む四月の光はまだ肌を刺すように冷たいけれど、室内を漂う静寂は、まるで繭に包まれているかのように温かい。「いいところだね」と君が小さく呟いた声が、静まり返った部屋に心地よく響いた。お風呂に向かう廊下を歩くとき、裸足で触れる床のひんやりとした、けれどどこか温もりを残した温度が心地よく、思考がゆっくりと停止していく。大浴場の湯船に身を浸すと、肌にまとわりつくお湯の重みが、これまで抱えていた名前のない不安を一つひとつ丁寧に洗い流してくれるようだった。水圧が心地よく背中に当たり、視界が白い湯気に滲んで、世界から色が消えていく。その心地よい空白の中で、私たちはただ、お互いの呼吸の音だけを聴いていた。夕食のバイキングで出会った富山名物のブラックラーメンは、夜の闇を溶かし込んだような驚くほど濃い色をしていたけれど、一口啜ると香ばしい醤油の風味が口いっぱいに広がり、濃厚なコクが胃の奥まで温めてくれた。その強烈な味わいに、私たちは顔を見合わせて、ふふっと小さく笑い合った。あ、そうだ。そういえば、浴衣の帯をうまく結べなくて、君が困ったように笑いながら手伝ってくれたときのことがあった。パリッとした綿の感触と、もたもたしている私を少しだけからかうような、けれど指先から伝わる温度はとても優しかった。そのとき、私たちはきっと、完璧に分かり合えなくても、この不完全なままで隣にいればいいのだと、言葉にせずとも理解し合っていたのかもしれない。滲み出した輪郭が、ゆっくりと重なり合い、一つの色になっていく。それは、無理に合わせるのではなく、自然に染まっていく感覚だった。深夜、静まり返った部屋で、誰にも邪魔されずにただ横たわっている。天井の木目に視線を這わせながら、明日、どこへ行こうか、あるいはどこへも行かずにここにいようか。そんなとりとめもないことを考えながら、君の手をそっと握った。指先に伝わる体温が、何よりも確かな答えのように感じられた。翌朝六時、世界がまだ深い群青色に包まれている時間。窓の外に広がる黒部川の流れを眺めていると、激しくも心地よい水の音が部屋まで届き、水面が朝陽を反射して、銀色の鱗のようにキラキラと細かく震えていた。その光の粒が、私たちの間にあった小さな壁を溶かしていく。今のままで、ここにいていい。怖がっていることは、きっと大切なこと。そう自分に言い聞かせながら、私たちは新しい季節の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと歩き出した。

  • 宇奈月温泉駅からホテルまで、あえてゆっくり歩いて、道端に舞う桜の速度を二人で数えてみてほしい。
  • バイキングのブラックラーメンをシェアして、その濃い色と深い味わいについて、とりとめもなく語り合ってほしい。