真夜中の空腹に、抗う理由なんてない
指先が、じりじりと冷たい。三月の下呂は、まだ冬のしっぽを強く掴んで離さない。駅からの無料シャトルバスを降り、下呂温泉望川館 / BOSENKANのロビーに足を踏み入れたとき、まず目に飛び込んできたのは、スペインから運ばれたという古いタイルだった。足裏に伝わるひんやりとした硬質な質感と、どこか懐かしい異国の薫り。目の前には静謐な和風庭園が広がっているのに、足元だけが遠い街角にいるような奇妙な違和感。けれど、その不調和こそが旅の心地よい合図のように感じられた。私たちはチェックイン後、あえて緻密な計画を無視して、薄暗くなり始めた温泉街をあてもなく徘徊した。誰が一番「意味のない買い出し」ができるかという、子供じみた賭けをしながら。結果的に、コンビニで買った正体不明の地元のスナック菓子と、少し高すぎる飛騨牛のジャーキー、そして賞味期限が明日までという危ういチョコレートを抱えて部屋に戻ってきた。夜の十一時を過ぎ、街の喧騒が遠のいた頃、私たちの胃袋はまだ、この旅の始まりを拒否していたのかもしれない。浴衣の帯を緩め、畳の上にコンビニ袋をぶちまける。カサカサというプラスチックの乾いた音が、静まり返った部屋に不自然に響いた。それが、私たちの密やかな深夜宴会の合図だった。
咀嚼音に紛れ込ませた、本音と冗談
「ねえ、桜の開花予想、どう見ても外れてるよね」
君が飛騨牛のジャーキーをゆっくりと噛みながら、不機嫌そうにスマートフォンの画面を差し出してくる。私はそれを軽くあしらい、指先で溶けかけたチョコレートを口に放り込んだ。濃厚な甘さが、冷え切った体にゆっくりと染み込んでいく。部屋の照明を落とした薄明かりの中で、チョコレートの茶色が濃く沈んで見えた。
「予想なんて、ただの目安だよ。っていうか、今の時期に桜を期待する方が、よっぽど無理があるんじゃない?」
「ひどいな。私は純粋に、このタイミングで街がピンク色に染まるのを見たかっただけなのに」
「その純粋さが、今回のルート選びの致命的なミスに繋がったわけでしょ。おかげで、予定にない道を三十分も歩かされたんだから」
「いいじゃん、あれこそ冒険でしょ。あそこにあった、あの変な形の雛人形、見た? 絶妙に表情が不機嫌だったよね」
私たちは、畳の上でゴロゴロしながら、そんなどうでもいい会話を幾度も繰り返した。飛騨牛の濃い塩気が口の中に残り、それに合わせて会話のトーンが少しずつ上がっていく。誰かがふっと笑うと、部屋の隅で小さなエコーが跳ねた。畳のい草の香りが、深夜のテンションを優しくなだめる。君はふと、真面目な顔で「やっぱりここに来て正解だった」と呟いた。私はその言葉にどう応えればいいか分からず、わざと「チョコ、もうないよ」と意地悪く言い返した。君の顔が、一瞬だけ本当に悔しそうに歪んだ。その飾らない表情こそが、この旅で一番の収穫だったという気がして、私は心の中で小さく笑った。
満たされた胃袋と、心地よい空白
食べ終えた袋が、畳の上に点在している。激しかった会話が途切れ、部屋に本当の静寂が降りてきた。私たちが滞在している露天風呂付客室 川の寮四季彩の窓の外からは、飛騨川の流れが、低い唸りのような音を立てて聞こえてくる。それは、誰にも邪魔されない、深い夜の呼吸のようだった。ふと思った。私たちの関係は、きっと地中の深いところで、ゆっくりとコンクリートを押し上げている根のようなものかもしれない。派手な花を咲かせるわけではないけれど、目に見えない場所で、時間をかけて、少しずつ硬い境界線を壊しながら太くなっていく。日常という名の冷たい舗装路の下で、互いの存在を確かめ合うように、静かに、けれど確実に。もしかすると、この旅の目的は、有名な観光地を巡ることではなく、ただこうして意味のない時間を共有し、お互いの不完全さを許し合うことだったのかもしれない。アルカリ性の柔らかなお湯に浸かった後の肌が、まだしっとりと水分を蓄えている。その吸い付くような感覚が、今の私たちを、心地よい倦怠感で包み込んでいた。もう、何も計画しなくていい。ただ、この空白の時間を、そのままにしておけばいいのだと思う。
庭のライトアップが、静かに消えていくのを眺めていた。
- 飛騨牛のジャーキー。噛めば噛むほど、旅の疲れが贅沢な味に変わる。
- 地元の和菓子。甘すぎない、春を待つ静かな味が心地いい。