← 戻る 季の湯 雪月花

濡れた木の香りと、外れた賭け

3月の風が鼻先を鋭くかすめる。強羅駅に降り立った瞬間、誰が一番に宿を見つけられるかという、くだらない賭けが始まった。結果、全員が同じ方向へ迷い込み、徒歩1分の距離を5分かけて歩くという、救いようのない方向音痴を披露することに。私たちは顔を見合わせ、春の冷たい空気の中で同時に小さく吹き出した。



差し出されたお抹茶の、吸い込まれるような深い緑。指先が凍えていたから、茶碗のずっしりとした温もりが、皮膚からじわじわと芯まで染み込んでくる。隣で誰かが「苦い!」と顔をしかめているのが可笑しくて。その心地よい苦みが、旅が始まったことを身体に教え込んでいる気がした。


「桜の開花予想、あと3日で80%だって」と、スマホの青白い画面を突きつけてくる友人の顔。ふと外を見れば、まだ硬い蕾が寒さに耐えてしがみついているだけ。その温度差に、私たちは遠慮なくツッコミを入れた。期待しすぎた者の末路を笑い合う時間は、案外贅沢なものだ。


浴衣の帯を締めようとして、誰一人として正解に辿り着けない。もがくたびに布が擦れる音が部屋に響き、結局、誰かが誰かの背中を適当に結んで「これでいいよ」と妥協した。見た目はひどいけれど、それが一番私たちらしい格好だったのかもしれない。少し窮屈な締め付けが、逆に心地よかった。


全室露天風呂付客室という贅沢に身を委ね、檜の湯に体を沈める。肌を刺す鋭い冷気と、内側からじっくりと溶かす熱い湯のコントラスト。濡れた木の表面が指先に吸い付くような、しっとりとした感覚。視界が白い湯気でぼやけて、世界に自分たちしかいないような錯覚に陥る。思考がゆっくりと、お湯に溶けて消えていった。


季の湯 雪月花 / Setsugetsuka of Hakone Gora Onsen のロビー中央に鎮座する能舞台。高い天井に、私たちのくだらない笑い声が反響して、なんだか場違いな心地がした。でも、その静謐な空間に自分たちのノイズを混ぜるのが、密かな快感だった。静寂があるからこそ、笑い声の輪郭がはっきりとする。


廊下の隅で見つけた、雛人形の鮮やかな赤。春分が近づいていることを、カレンダーではなく色彩で教えられた。誰が一番人形に似ているかという、最低な賭けが始まったのはその直後だった。くだらなさに絶望しながら、私たちは廊下に響き渡るほど笑い転げた。


広いベッドにダイブしたとき、シーツのひんやりとした感触と、その後に追いかけてくる体温の混ざり合い。明日の計画を立てる気力はもう残っていない。ただ、この心地よい疲労感に身を任せていたい。明日もきっと、私たちはどこかで迷子になるのだろう。

窓の外で、春の気配が静かに呼吸をしていた。

  • 貸切露天風呂で、誰が一番長く耐えられるか選手権をやってみて。
  • 強羅駅からの徒歩1分を、わざと遠回りして歩く贅沢を。