「それ、パジャマパーティーの失敗作じゃん」
「ちょっと待って、本当にこれを着て入るの?」
誰かが呆れたように言い、目の前の湯衣を指差した。私はそれを手に取り、指先で少しざらついた、どこか懐かしい生地の感触を確かめる。
「ルールだから仕方ないでしょ。っていうか、君が着たら巨大なマシュマロみたいになると思うよ」
「ひどいな!まあ、君こそパジャマパーティーに失敗してそのまま迷い込んできた人みたいだけど」
私たちは互いの格好を笑い合い、誰が一番滑稽に見えるかという、どうでもいい賭けを始めた。濡れた布が肌に張り付く不快感さえも、今の私たちには心地よいスパイスになる。誰かが小さく吹き出し、その笑い声が廊下に軽やかに跳ねた。そんなくだらない会話の応酬こそが、この旅の正しいリズムだった。
境界線が溶け出す、二百坪の静寂
ロビーを出た瞬間、八月の北海道らしい、肌を刺すような冷たい空気が肺の奥まで入り込み、意識を鮮明に覚醒させた。家族混浴できる大露天風呂の宿 層雲峡観光ホテルへ足を踏み入れ、大露天風呂「宇旅璃」へ向かうまでの短い廊下で、私たちはまだ騒がしかった。けれど、目の前に広がった二百坪という圧倒的な水面を見た瞬間、会話の波形がふっと変わった気がした。
足元に広がるタイルのひんやりとした冷たさと、そこから立ち上る濃厚な硫黄の匂い。湯衣という、ある種の制服を纏った私たちは、個人の境界線を曖昧にしたまま、ゆっくりと湯の中に身を沈めた。お湯の温度は驚くほど穏やかで、熱すぎることもなく、ただ皮膚と水の境界線がゆっくりと溶けていくような、心地よいぬるさがある。水面に触れた指先から、小さな波紋が広がっていく。私たちの会話も同じだった。最初は大きな笑い声が水面を叩いていたけれど、次第にそれは静かなさざ波に変わり、やがて石狩川の低い唸り声に飲み込まれていった。川の音は一定の周波数を持っていて、それをBGMにしていると、普段なら口に出さないような思考が、毛細管現象のように自然と意識の表面に登ってくる。
食事の時間になると、ライブキッチンの熱気が私たちを包み込んだ。目の前で焼かれるステーキの、脂が弾けるパチパチという快い音。手作りソーセージの弾けるような食感と、口いっぱいに広がる濃厚な肉汁。お皿を重ねながら、「次は何を食べるか」という単純な欲求に忠実になれる時間が、今の私たちには何より必要だった。
本館「彩花」の客室に戻り、畳のい草の香りに包まれて横になると、エアコンの低い動作音が心地よい。ベッドから照明のスイッチまで、あと三歩。その距離を測りながら、私はこの場所で、自分が誰のものでもない「ただの個体」に戻れたことに気づいた。誰かの期待する周波数に合わせる必要はなく、ただ自分の呼吸の速度だけを信じていればいい。そんな解放感が、シーツのひんやりとした質感と共に、ゆっくりと身体に染み込んでいった。
湿った夜風と、答えのない問い
「ねえ、十年後も私たち、こんなふうにくだらないことで笑い合ってるかな」
深夜二時。部屋の明かりを落とし、窓から入り込む湿った夜風に当たりながら、誰かがぽつりと呟いた。昼間の喧騒が嘘のように、声のトーンは低く、そして誠実だった。
「さあね。たぶん、もっとひどい冗談を言い合ってると思うけど」
「……正直、来月からのことが、ちょっとだけ怖い」
「わかるよ。私も。でも、今はこのぬるいお湯の感覚だけ覚えておこうよ」
私たちは答えを出さなかった。ただ、暗闇の中で互いの気配だけを確認し合い、静寂という名の心地よい重みに身を任せていた。解決しなくていい問題があることを、この旅が教えてくれた気がする。不安があることは、それだけ何かを大切にしたいと思っている証拠なのだから。
窓の外で、石狩川の流れだけがずっと、同じリズムで鳴っていた。
- 湯衣を着用して、家族や友人と気兼ねなく大露天風呂で時間を過ごしてほしい
- ビュッフェのステーキは、焼き上がった瞬間に確保するのが正解だと思う