ある午後のあなたへ。もし、今の二人が「このタイミングで旅に出てもいいのだろうか」と、小さな迷いの中にいるのなら。あるいは、言葉にできないもどかしさを抱えたまま、どこか遠くへ行きたいと思っているのなら。この部屋の、少しだけ冷たい空気と、窓から見える静かな街の灯りが、ちょうどいい答えになるかもしれません。そんな予感がしています。
弧を描く夜景に、静かな呼吸を重ねて
指先に触れる浴衣の生地は、予想していたよりも少し硬くて、けれどどこか懐かしく、安心する質感をしていた。帯を締め直そうと身をよじったとき、ふと隣にいた君の肩が触れた。その瞬間の、ほんのわずかな体温の伝わり方に、私たちはどちらも気付いていたはずなのに、あえて誰もしゃべらなかった。静寂さえも心地よい、そんな贅沢な時間。札幌プリンスホテルの円柱形のタワーに身を置くと、視界は直線ではなく、緩やかなカーブを描いてどこまでも広がっていく。その視界の歪みが、なんだか私たちの、うまく噛み合わないけれど不思議と心地よい関係に似ているな、と感じた。 屋上のヘリポートに立ったとき、七月の夜風が、湿り気を帯びた夏の香りと共に頬を撫でた。ひんやりとした空気の中で、遠くの街の喧騒が低く唸っている。やがて夜空に大きな花火が咲いたとき、視覚よりも先に、胸の奥にドクンと重い振動が届いた。それは音というよりも、皮膚で感じる触覚に近い感覚だった。「綺麗だね」と口に出す代わりに、私は君の袖を小さく掴んだ。隣に立つ君の呼吸が、花火の鮮やかな光に照らされて、少しだけ速くなっているのが分かった。私たちは、お互いの正解を探し出すことに、少しだけ疲れていたのかもしれない。けれど、この場所で同じ振動を共有しているときだけは、それで十分なのだと思えた。それはまるで、冷たい石の上に静かに広がっていくベルベットのような緑の苔が、長い時間をかけてゆっくりと石の角を丸めていくように、私たちの間の鋭い境界線も、少しずつ柔らかく塗り替えられていくような、そんな静かな変化だった。琥珀色の時間の中で、ただ隣にいること
部屋に戻ると、クラブフロア特有の、夕暮れ時の空を模したような柔らかな照明が、私たちの影を長く、深く伸ばしていた。裸足で踏みしめたカーペットの厚みが、外の世界で張り詰めていた緊張を、静かに、けれど確実に吸い取っていく。私たちは、どちらからともなくベッドの端に腰掛けた。洗いたてのシーツがもたらす、凛とした冷たさ。そこに体を預けると、今日一日の歩いた距離と、心の中のざわつきが、ゆっくりと凪いでいくのが分かった。「ねえ、明日もゆっくりしていようか」と、君がぽつりと呟いた。もしかすると、私たちはずっと「何かを解決すること」ばかりを考えていたのかもしれない。けれど、ここではただ、隣に誰かがいるという事実だけが、確かな重みを持ってそこにある。 翌朝、まだ少し眠い目をこすりながら向かった朝食ビュッフェでは、北海道の夏が凝縮されたような色彩に囲まれていた。プレートに盛ったばかりの、瑞々しいメロンの甘みが舌の上で弾ける。その濃厚な果汁が喉を通る瞬間、ふと、君が「美味しいね」と小さく笑った。そのなんてことのない一言が、どんな深い愛の言葉よりも、今の私たちには必要だった気がする。その後、温泉に浸かり、お湯の温度がちょうどよく肌に馴染むのを感じながら、私は考えた。欠けている部分があるからこそ、そこになにかが流れ込んでくる。私たちは完璧ではないけれど、この不完全なリズムのままで、一緒に歩いていけるのかもしれない。境界線を消し去るのではなく、ただ優しく覆い隠してくれる苔のように、私たちは時間をかけて、お互いの居場所を広げていけばいい。窓の外で、札幌の街がゆっくりと目覚めていく。ある部屋の、ある午後の記憶より。
- 浴衣に着替えて、あえて目的を決めずにホテルの回廊をゆっくり歩いてみること。
- 朝食ビュッフェでは、地元の旬の果物を一番に選んで、その甘さを二人で分かち合うこと。