肺の奥まで凍てつく、青い路面電車の律動
函館駅に降り立った瞬間、肺の奥まで凍りつくような鋭い空気が流れ込んできた。三月の北海道は、まだ冬がしがみついている。誰かが「春分の日が近いから、もう春でしょ」なんて根拠のないことを言い出し、私たちは誰が一番先に迷子になるかという、どうでもいい賭けを始めた。青い路面電車の車内に乗り込むと、ガタガタと不規則に揺れる振動が足の裏から伝わってくる。窓ガラスには白い結露がつき、外の世界をぼんやりと滲ませていた。隣で地図アプリと格闘している友人の指先が、寒さで赤くなっている。「こっちで合ってるよね?」という不安げな声が、冷たい車内に溶けていく。路面電車のベルが、静かな街に鋭く響き渡った。
赤レンガの隙間に、静止した時間が潜んでいた
電車を降りて歩き出すと、潮の香りが混ざった湿った風が頬を叩く。赤レンガ倉庫のあたりまで来ると、建物の壁に触れた指先に、ざらついた古い記憶のような感触が残った。冷たいレンガの肌触りが、この街が積み重ねてきた時間の厚みを物語っている。ふと視線をずらすと、ショーウィンドウの中に雛人形が静かに並んでいた。ひな祭りの季節。色鮮やかな衣装を纏った人形たちの、完璧に静止した表情。その静寂と、私たちのくだらない言い争いという騒音のコントラストが、ひどく滑稽に感じられた。「桜の開花予想、もう出てるらしいよ」と誰かが呟いたが、この凍える温度の中でピンクの花びらを想像するのは無理がある。それでも、私たちはわざと遠回りをして、名もなき路地裏に入り込んだ。濡れたアスファルトを叩く靴音だけが、静まり返った路地に心地よく反響していた。行き止まりに突き当たったとき、私たちは顔を見合わせて、同時に小さく笑った。
重厚な壁が、私たちの騒がしさを包み込む聖域
ようやく辿り着いた HakoBA 函館 by THE SHARE HOTELS の重い扉を開けた瞬間、外の冷気とは対照的な、どこか懐かしい温度に包まれた。ここがかつて銀行だったという事実は、空間の端々に潜んでいる。天井の高さや、壁の厚み。かつてここには、誰かの人生を左右するような「価値あるもの」が厳格に保管されていたのだろう。けれど今のこの場所は、そんな堅苦しさを脱ぎ捨てて、旅人のとりとめもない会話を飲み込む大きな器になっている。
ロビーラウンジに広がる深いブルーの色調は、まるで深い海の底に潜り込んだような感覚にさせる。私たちは、ジュニアスイートのメゾネットのような贅沢な空間に憧れつつも、あえて賑やかなバンクグループの2段ベッドを選んだ。梯子の金属部分が指先に冷たく触れる。上の段に潜り込んだ友人が、狭い空間で身悶えしながら「ここ、秘密基地みたい」と呟いた。その声が、高い天井に反響して、心地よいリズムとなって降りてくる。ロビーの片隅にある自転車レンタルを眺めながら、明日はどこまで足を伸ばそうかと、根拠のない計画を立てる時間さえも愛おしい。
お腹が空いた頃に運ばれてきたのは、ハッチャギ カリーバーのスープカレーだった。器から立ち上るクミンの香りと、じわりと広がる生姜の刺激。スプーンで掬い上げた野菜の柔らかさが、凍えていた胃袋をゆっくりと解かしていく。一口食べるごとに、体温が内側から上昇していくのがわかる。私たちは、それぞれのベッドに腰掛け、誰が一番不格好にカレーを食べていたかという、最低なツッコミを入れ合いながら時間を潰した。
この場所には、何かを解決しようとする空気はない。ただ、そこにいていいという許容があるだけだ。元銀行という、かつての「正解」や「数字」が支配していた空間で、私たちはあえて「正解のない時間」を過ごしている。その矛盾が、このホテルを特別な場所にしているのかもしれない。深夜、消灯した後の部屋に、誰かの寝息と、遠くで聞こえる街の静寂が混ざり合う。私たちは、明日もまた迷子になろうと、暗闇の中で静かに約束した。
窓の外で、夜の海が静かに呼吸をしていた。
- HakoBA 函館 by THE SHARE HOTELS のロビーで、あえて予定を決めずに本を眺める時間を。
- 寒さに震えた後は、ハッチャギ カリーバーのスープカレーで、内側から温度を上げる体験を。