← 戻る くったり温泉レイク・イン

目を閉じても、月がそこに残っていた

目を閉じても、月がそこに残っていた

予約ボタンを押す前に、少しだけ迷っているあなたへ。どこか遠くへ行きたいけれど、何を求めているのか自分でもよく分からない。そんなとき、ただ「そこにある景色」に身を任せてみるのはどうだろう。隣に誰かがいて、同じ温度の空気を吸っている。それだけで十分だと思える場所があることを、お伝えしたくてこの手紙を書いています。

銀色の波と、プリズムに溶ける午後

車を降りた瞬間、肺の奥まで届く空気がひんやりと澄み渡り、針葉樹の清々しい香りが鼻腔をくすぐった。九月の新得町は、季節がゆっくりと、けれど確実に色を変え始めている。視界の端で揺れているのは、一面のすすき。風が吹くたびに銀色の波が押し寄せ、「さらさら」という誰かが密やかに囁いているような音が耳に届く。その音に意識を向けていると、ふと、隣にいるあなたの指先が私の手に触れた。指先のわずかな熱が、今の私たちにとって一番確かな正解だったのかもしれない。

目の前に広がるくったり湖は、光の屈折がいたずらをしているみたいに、刻一刻とその表情を変えていた。太陽が傾き始めると、水面が細かなプリズムのように砕け、金色の粒子が舞っている。その光の粒を追いかけて、私たちは湯宿くったり温泉レイク・インの入り口に立った。豪華な装飾はないが、使い込まれた木の温もりが心地よい、静かな佇まい。ロビーに足を踏み入れたとき、外の冷気と室内の柔らかな温もりが混ざり合い、心地よい境界線が肌の上に描かれた気がした。

レストランの大きな窓から湖を眺めていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。十勝の豊かな大地で育った野菜の濃い味わいと、地元の乳製品のクリーミーなコクが、冷え始めた体にゆっくりと染み渡っていく。窓の外では、青から紫へと移ろう空の色が湖面に溶け込み、遠くの山々の輪郭が濃くなっていく。「ねえ、ずっとこうしていられたらいいのに」と、あなたが小さく呟いた声が、静かな室内に心地よく響いた。正解を探すような会話ではなく、ただ「今、ここに一緒にいる」という事実だけを、ゆっくりと味わっていた。そんな贅沢な空白こそが、今の私たちには必要だったのかもしれない。

湯煙の向こう側、静寂に綴る独白

温泉の湯気に包まれているとき、世界には私たち二人しかいないような錯覚に陥った。42度ほどのちょうどいい温度のお湯が、滑らかな質感で指の隙間をすり抜けていく。肩に溜まっていた重い何かが、温かな水に溶けて消えていくのが分かった。露天風呂に出ると、そこには深い夜の帳が降りていた。ひんやりとした夜風が頬を撫で、お湯との温度差に小さく身震いする。そのとき、ふと見上げた空に、驚くほど大きな月が浮かんでいた。

その白すぎる光は、網膜に直接書き込まれるように強烈で、一度目を閉じても、瞼の裏に白い円形の残像がいつまでも残っていた。光の残像を眺めながら、私はふと思った。私たちの関係も、こんな風に不確かで、けれど消えない何かを共有できればいいのかもしれない。完璧に理解し合うことなんて無理だけれど、同じ月を見て、同じ温度に心地よさを感じる。その程度の距離感が、一番心地よいのかもしれないな、と。

部屋に戻り、真っ白なリネンに体を沈めたとき、布地のパリッとした感触とかすかな石鹸の香りが鼻をくすぐった。深夜、ふと目が覚めたとき、隣で静かに規則正しく繰り返されるあなたの呼吸音が聞こえた。そのリズムに自分の呼吸を合わせていく。誰にも邪魔されない、ただ静寂だけが満ちている空間。ここでは、孤独であることは寂しいことではなく、二人で一緒に孤独になれるという、贅沢な特権のように感じられた。私たちはまだ、お互いのことを全部は知らないけれど、この静かな夜があるなら、ゆっくりと時間をかけて知っていけばいい。そう思えたとき、心の中にある小さな緊張が、ふわりとほどけていった。

湖の静寂に身を委ねて、心地よい眠りにつく。

  • 夜、湖畔を散歩して、すすきの揺れる音だけを聴いてみて。言葉がなくても心地いい距離が見つかるから。
  • 朝食のあと、少しだけ早めにチェックアウトして、大雪山国立公園の方まで車を走らせてみて。空気の透明度に驚くはず。