「計画なしが正解」なんて誰が言い出したの?
「ねえ、誰だよ、『計画なしが最高の計画』なんて言ったの!おかげで迷子になって、歩いた距離だけは誰よりも長いんだけど」
「いいじゃん。そのおかげで、あんなに綺麗な藤の花に偶然出会えたわけでしょ。まあ、君の方向感覚が絶望的だったっていう話だけど」
「ちょっと待って、今私のことディスった!?賭けてもいいけど、次迷うのは絶対あなただから」
互いに指を差し合い、誰が一番の間抜けかを競い合う。そんなくだらない言い争いさえ、旅のスパイスに変わる。カチリとカードキーが鳴り、部屋に入った瞬間、誰かがわざとらしく大きなため息をついた。でも、その声はどこか弾んでいて、私たちは同時に笑い出した。誰かがベッドにボフッとダイブした時の鈍い音と、弾ける笑い声が、密やかな空間に心地よく反響している。結局、誰が正しかったかなんてどうでもいい。ただ、この騒がしい空気感さえあれば、どこで迷っても正解だったと思える気がした。
時を止めた琥珀色の隠れ家
ラ・ジェント・ステイ函館駅前のロビーを抜けて部屋に向かうとき、ふと、時間が少しだけずれたような感覚に陥った。和の風情と洋風建築が無理なく混ざり合った空間は、まるで古い記憶を丁寧にリメイクした映画のセットのようで、歩くたびに足裏に伝わるカーペットの柔らかな弾力が、旅の緊張をゆっくりと解いていく。JR函館駅の中央口を出て、5月の風に揺れるシンボルツリーを横目に歩く。わずか1分ほどの距離なのに、駅の喧騒が遠ざかり、代わりにしっとりとした静寂が肌にまとわりつく。その温度差が、ここが私たちの「拠点」であることを教えてくれた。
案内された「プレミアムファミリー・シアタールーム<銀花>」のドアを開けると、広々とした空間が、私たち三人分の笑い声を余裕で受け止めてくれた。窓の外には函館の街並みが広がっているけれど、それよりも先に目に飛び込んできたのは、丁寧に整えられたリネンの白さと、間接照明が作り出す琥珀色の光だ。裸足で歩くと、フローリングのひんやりとした感触と、ラグの温かさが交互にやってくる。その境界線を何度も行き来しながら、私たちは荷物をぶちまけた。誰の靴下がどこにあるのか分からない混沌とした状態。でも、それがいい。完璧に整えられた空間よりも、少しだけ乱れたこの場所の方が、私たちの不器用な関係性に似ている気がした。空調の低いハム音が、部屋の隅で静かに鳴っている。その音が、賑やかな会話の合間に心地よい余白を作っていた。ふと気づくと、サイドテーブルの隅に、誰かが落とした小さな飴色の包み紙がひとつだけ残っていた。それを拾い上げることもせず、ただ眺めていた。この旅が終わる頃には、この部屋にどんな「忘れ物」が残っているだろう。形のあるものだけではなく、誰かがふと漏らした本音や、共有したくだらない冗談。そういう目に見えない断片が、このベージュ色の空間に静かに蓄積していく。それはきっと、ガイドブックに載っているどんな絶景よりも、鮮やかな記憶になるはずだ。
船底の静寂と、溶けゆく本音
「……正直、明日仕事に戻るの、無理かもしれない」
1階のメインバー「ソブリン」の、少しだけ暗い照明の下で、誰かがぽつりと呟いた。帆船の内部をイメージしたというその空間は、外界の時間を遮断する厚い壁に囲まれているようで、心地よい閉塞感がある。グラスの中でカランと氷が鳴る音。その音が、今の私たちにとっての唯一のメトロノームだった。昼間の喧騒が嘘のように、声のトーンが自然と落ちていく。
「まあ、私も。でも、このカクテルの色、綺麗だよね。なんだか、5月の函館の夜空に似てる気がしない?」
「そうかもね。というか、私たち、結局あんまり観光してないよね。ホテルでダラダラして、天然温泉に入って、ここで飲んで。……最高じゃない?」
誰かが小さく笑い、グラスを合わせた。カチンという高い音が、静かな空間に波紋のように広がった。そのとき、隣にいた友人が、かっこつけてカクテルを飲もうとして、不器用にナプキンを床に落とした。その拍子に、私たちはまた、堪えきれずに吹き出した。洗練された大人のバーという設定に、私たちの泥臭い友情が心地よく不協和音を奏でている。その不完全さが、たまらなく愛おしい。温泉で芯まで温まった体と、冷たいアルコールの刺激。その矛盾する感覚が、頭の中を心地よくかき混ぜる。私たちは、答えを出すことをやめた。どこへ行くべきか、何を見るべきか。そんなことは、もうどうでもいい。ただ、この船底のような静寂の中で、氷がゆっくりと溶けていく速度に合わせて、言葉を紡いでいればいい。不確かなままでいい。その「分からない」という感覚こそが、旅というものの正体なのかもしれない。
夜風に混じって、どこからかバラの香りがかすかに漂ってきた。
- 朝6時の函館朝市へ。まだ眠い目をこすりながら、温かい海鮮丼を頬張る贅沢を。
- 旅の締めくくりに天然温泉へ。お湯の温度に身を任せ、思考を完全にオフにする時間を。