← 戻る ラビスタ函館ベイ

濡れたアスファルトに反射した、誰かの笑い声

鼓動するキャリーケースと、春の冷たい吐息

コンクリートを叩くキャリーケースの硬い音が、規則正しいリズムを刻みながら、静かな街に不協和音のように響いていた。JR函館駅からホテルへと向かう十五分間の道のり。五月の空気はまだ冬の名残を抱いていて、首筋を撫でる風は十数度の冷たさを孕み、薄い上着の隙間から忍び寄る。一人が地図アプリを握りしめ、「こっちだよ」と自信満々に先導し、その後ろを、半分眠そうな顔をした友人がふらふらと、まるで夢遊病者のようについてくる。そんな、いつものバラバラな歩調。僕たちは誰が一番最初に道に迷うかという、くだらない賭けに興じていた。結果的に、地図を持っていた本人が一番に曲がり角を間違えたけれど、誰もそれを責めなかった。むしろ、そのおかげで予定になかった路地の、湿った土と誰かの家の夕食の匂いに気づけた気がする。濡れたアスファルトに落ちた新緑の葉が、街灯の光をプリズムのように屈折させ、小さな光の粒となって僕たちのとりとめもない会話を拾い上げ、夜空へと散らしていた。「やっぱり北海道の空気は、肺の奥まで洗われる感じがする」と誰かが呟いた声が、静寂に溶けていった。

赤レンガの記憶と、藤色の微睡み

赤レンガ倉庫のあたりまで来ると、潮騒の香りがふわりと鼻腔をくすぐり、視界が不意に開けた。五月の函館は、至る所に色彩が溢れている。ある路地に入ったとき、頭上を覆い尽くすように垂れ下がった藤の花が、淡い紫色のフィルターとなって陽光を遮っていた。そこは完全な闇ではなく、光が幾重にも屈折して届く、静謐な薄明かりの世界。僕たちはそこで足を止め、誰が一番美しい瞬間を切り取れるかという、贅沢でどうでもいい競争を始めた。しかし、結局はファインダー越しに景色を切り取るよりも、ただそこに漂う花の甘い香りに酔いしれ、深く呼吸を繰り返していた。一人が「ねえ、ここ、どこに向かってるか本当は分かってないでしょ」といたずらっぽく笑い、リーダー格だったはずの友人が「まあ、なんとかなるでしょ」と肩をすくめる。その瞬間、旅の目的が「目的地に辿り着くこと」から「迷っている時間そのものを愛でること」へと、静かに書き換えられた気がした。不意に通りかかった地元の方が、僕たちの迷走ぶりを見て小さく微笑み、指先で方向を示してくれた。その指先の緩やかな動きさえも、この街が持つ心地よい時間の流れの一部のように感じられ、僕たちは急ぐことを完全に諦め、潮風に身を任せた。

ラビスタ函館ベイ / Rivista Hakodate Bay、光の境界線に身を委ねて

ようやく辿り着いたラビスタ函館ベイ / Rivista Hakodate Bayのロビーに足を踏み入れたとき、まず肌に触れたのは、空間が持つ心地よい「重み」だった。大正ロマンを彷彿とさせるクラシカルな設えが、外の軽い風とは対照的な、落ち着いた静寂を纏っている。ゲストルームに入り、誰が一番いいベッドのポジションを確保するかという、小学生のような争奪戦が始まった。リネンのひんやりとした感触と、清潔な石鹸の香りが心地よい。窓の外には、函館の夜景が宝石箱をひっくり返したように広がっていたが、僕が惹かれたのは、その輝きそのものではなく、ガラス窓に反射して室内に淡く入り込む、街の灯りの残像だった。それは、現実の景色と、室内の静けさが混ざり合う境界線のような光。そのまま最上階の露天風呂へ向かう。熱いお湯に体を沈めた瞬間、皮膚の境界線が消えて、自分が夜の海の一部になったような錯覚に陥る。立ち上る白い湯気がプリズムのように夜景をぼかし、空と海と街の灯りが、ひとつの大きな光の塊となって溶け合っていた。「贅沢すぎて、明日から現実に戻れる気がしない」という友人のぼやきさえも、湯気に包まれて遠い記憶のように聞こえた。翌朝、レストランで向き合った海鮮丼。イクラの一粒一粒が、朝陽を反射して小さなオレンジ色のランプのように輝いている。それを口に運んだとき、濃厚な海の味が舌の上で弾け、眠っていた感覚がひとつずつ、鮮やかに塗り替えられていくのが分かった。誰一人として会話をせず、ただひたすらに食事に集中した十分間。それは、どんな饒舌な会話よりも深く、僕たちがこの旅を共有していることを証明していた。

濡れた頬を撫でる風が、少しだけ温かくなって、僕たちはまた歩き出した。

  • 五月の函館は、日中は暖かいけれど夜は冷える。薄手のジャケットを一枚、忘れずに持っていくこと。
  • ラビスタ函館ベイ / Rivista Hakodate Bayの朝食は、想像以上に時間がかかる。スケジュールに十分な余裕を。