潮風が肌に薄い膜のように張り付いている。駅に着いた瞬間、誰が一番先に道に迷うか賭けをしたが、結果的に全員で同じ方向に間違った。ラビスタ函館ベイANNEXのロビーに足を踏み入れたとき、和洋折衷様式の端正な空間に、私たちは一瞬だけ口を閉ざした。でも、その静寂は30秒しか持たなかった。
口の中で弾けるイクラの濃厚な塩気と、キンキンに冷えたビールの喉越し。鼻腔をくすぐる磯の香りと共に、函館の夜は胃袋から始まるのだと確信した。「これぞ大人の旅だね」と誰かが呟いたけれど、実際はただのお腹を空かせた観光客の集まり。それでも、その贅沢な味が指先にまで染み渡るような充足感があった。
「見てよこの家具、完全に貴族の館じゃん」と誰かが吹き出す。私たちは、この上質な空間に自分たちがどれだけ不釣り合いかを競い合うことにした。クラシックな椅子に深く腰掛け、わざと行儀悪く足を伸ばして、お互いの「大人になれてなさ」を笑い合う。その不格好な時間が、何よりも心地よかった。
本館ではなくANNEXに泊まるという選択が、なんだか秘密結社に招待されたような気分にさせた。特別室の贅沢な静寂に包まれていると、プレミアムという言葉の正体は、「誰にも邪魔されずに、好きなだけバカになれる特等席」のことなのだと気づく。私たちはその特等席で、深夜まで終わらない言い合いを続けた。
9月の夜風には、もう冬の足音が混じっている。月見の夜、外に出るとススキが銀色の波のように揺れていた。冷たい空気が肺の奥まで入り込み、都会で凝り固まっていた圧迫感が、ふっと指先の軽い震えに変わる。言葉にしなくても、隣に誰かがいるだけで十分だという、静かな確信。
裸足で踏んだカーペットの厚みが、足首まで飲み込もうとする。ベッドからバスルームまで、ゆっくり数えて12歩。深夜3時にふと目が覚めて、静まり返った部屋の中で自分の呼吸音だけが聞こえる。その静寂が、心地よい重みを持って身体に降りかかってくる感覚。
天然温泉の白い湯気に包まれて、自分と世界の境界線が曖昧になる。絶妙な温度のお湯が、凝り固まった肩の力をゆっくりと解いていく。脱衣所で誰かが派手に滑りそうになり、それを笑いながら助け合う。そんな些細なドタバタが、この旅の最高のハイライトになるのは、ある種の必然だった。
チェックアウトのとき、誰かが「また来なきゃね」と小さく漏らした。それは約束というより、ただの独り言に近い。でも、その言葉が秋の空気に溶けて、私たちの間に温かい余韻だけが残った。正しく古いものが新しく感じられるのは、きっと隣に笑い合える誰かがいるからだ。
窓の外で、函館の海が静かに光っていた。
- 朝食の海鮮丼は、迷わず全部盛りにして。後悔はしないはず。
- 夜のベイエリアを、あえて地図を持たずに歩いてみて。