「まだ、冬の匂いがするね」
「まだ、冬の匂いがするね」
君がそう言って、厚手のウールマフラーに顔を深く埋めた。ステイビューいかほの重厚なドアを開けた瞬間、外の刺すような冷気と、館内に漂うわずかに温い木の香りが混ざり合い、鼻の奥をかすめる。
「そうかも。でも、もうすぐ春になる気がするよ」
僕たちはどちらからともなく、少しだけ歩幅を合わせた。靴を脱ぐときのフローリングのひんやりとした感触が、旅の始まりを告げる合図のように心地よく、同時に少しだけ緊張を運んできた。
予報と開花の間にある、贅沢な空白
部屋に入ると、清潔なリネンの香りがふわりと舞い、外の喧騒を遮断した静寂が僕たちを包み込んだ。デラックスルームの静謐な空間に並ぶ二台のベッド。三月の淡い光が白いシーツに反射し、どこか心細いほどの純白さが広がっている。けれど、その適度な距離感が、隣に誰かがいるという確信をより鮮明にさせてくれた。指先で触れたカーテンの厚い生地が、外の冷たさを拒絶し、二人だけの密やかな聖域を作り出している。窓の外では、まだ冬の眠りから覚めない木々が、静かに春を待っていた。
備え付けの「白銀の湯」に身を沈めると、とろりとしたお湯が肌を包み込み、皮膚の境界線が曖昧になっていく。自分がどこまでで、どこからが湯なのか分からなくなる心地よい喪失感。浴室のタイルに触れる指先がじわじわと熱を帯びるたび、心の中の強張りがゆっくりと溶け出していく。お湯の柔らかな質感が、日々の疲れだけでなく、言葉にできなかった不安さえも洗い流してくれるようだった。僕たちの関係も、今の季節の桜に似ているのかもしれない。開花予想という「正解」は出ているけれど、実際に花が開くまでは、もどかしくも甘い空白の時間がある。そのラグこそが、人生で一番贅沢な時間なのだと、白く立ち上る湯気に巻かれながら思った。
ふと、暗がりの中でランプをつけようとして指が空を切り、壁を軽く叩いてしまう。僕の不器用な仕草に、君が小さく、鈴を転がすように笑った。そのなんてことのない瞬間が、張り詰めていた心をふわりと緩めてくれる。
翌朝、石段街へ向かう道すがら、冷たい風に混じる硫黄の香りが鼻をくすぐった。石段を一段ずつ登るたび、足裏から伝わる石の硬さと、街に漂う懐かしい情緒が心地よい。途中で買った出来立ての饅頭を半分に割り、熱い餡の甘さが口いっぱいに広がる。冬の名残と春の予感。そのコントラストが、今の僕たちにちょうどいい。道端に飾られたひな人形たちが、静かに僕たちを見送っていた。人形たちの視線はどこか遠くを見ているけれど、僕たちは、今ここにある体温だけを信じて歩いた。答えを急がなくていい。ただ、隣にいることの確かさを、この街の静寂に預けてみたくなった。
湯気の中に溶けていく視界の端で、君の肩が僕の肩に、そっと触れた。
- 石段街を歩くときは、あえてゆっくり歩いてみて。きっと、小さな春の兆しが見つかるから。
- お部屋の温泉に浸かったあと、二人で温かいお茶を飲みながら、静かな時間を過ごそう。