← 戻る 伊香保温泉 お宿 玉樹

濡れた畳の匂いと、誰かが忘れた傘

濡れた畳の匂いと、誰かが忘れた傘

湿った空気が肌にまとわりつき、不快感だけが加速する午後。誰が最後に集合場所へ辿り着くかという馬鹿げた賭けをした結果、全員が遅刻するという最悪の結末を迎えた。土砂降りの雨に打たれ、ずぶ濡れのまま辿り着いたのは、伊香保温泉 お宿 玉樹の玄関だった。靴を脱ぎ、全館畳廊下へと一歩踏み出した瞬間、足裏に伝わる畳のしっとりとした温度と、い草の懐かしい香りに、なんだか心地よく敗北した気分になった。


視界を白く塗りつぶすほどの濃い湯気が、心地よい温度で肌を包み込む。夕食の膳に並んだ地元の山菜を口に運ぶたび、雨上がりの森の深い匂いが鼻腔を抜け、身体の芯まで浄化されていく感覚があった。地酒スタンドで直感的に選んだ一杯は、喉を焼くような刺激の後にまろやかな甘みが広がり、「この酒に人生を預けてもいい」なんて、酔っ払いたちの誇大妄想が止まらなかった。
「あのヒールで石段街を登ろうなんて、正気かよ」と、誰かが堪えきれずに吹き出した。おしゃれにこだわりすぎて、途中で歩行不能に陥った友人の、情けない足取り。廊下に響き渡る私たちの笑い声は、厚い畳に優しく吸い込まれていく。ここでは、完璧に装うことよりも、少しだけ不格好に笑い合えることの方が、ずっと贅沢な時間なのだと感じた。
深夜二時のラウンジ。氷がグラスに当たるカランという高い音だけが、静寂の輪郭を鋭くなぞっている。誰が先に寝落ちするかという、大人のすることとは思えない低レベルな勝負。結局、一番口が回らなくなったやつから、静かに意識を飛ばしていった。その情けない寝顔を眺めながら、私たちは言葉にせずとも、お互いのダメな部分を丸ごと認め合っていた。
100%掛け流しの黄金の湯に身を沈めると、皮膚の境界線がゆっくりと曖昧になっていく。毛細管現象のように、熱いお湯が日々の疲れという隙間にじわじわと染み込んでいくのがわかる。表面張力に身を任せて浮かんでいると、自分が人間なのか、それともただの温かい水溜まりの一部なのか、分からなくなるほどの心地よい喪失感に浸った。
雨に濡れて、より深く濃くなった緑。中庭の紫陽花が、雨の重みに耐えかねてしっとりと頭を垂れている。部屋の窓を少しだけ開けると、ひんやりとした冷たい空気が肺の奥まで届き、思考がクリアになった。ベッドのシーツのパリッとした清潔な感触と、遠くでリズムを刻む雨音。この空白のような静寂こそが、何よりも贅沢な設備に思えた。
ふと見上げた夜空に、小さな光がひとつ。迷い込んだホタルだった。誰かが「えっ」と小さく声を上げた瞬間、私たちは示し合わせたように息を止めた。都会のネオンに慣れすぎた目には、その淡い光が、まるで別の惑星から届いた秘密の信号のように誇張されて見えた。誰一人として、スマホを取り出して記録しようとはしなかった。
チェックアウトの時、誰かが傘を一本忘れていった。けれど、誰もそれを追いかけようとはしなかった。この街の雨に、何か大切な記憶を置いていったような、不思議な充足感が胸を満たしていた。私たちはまた、不完全なままで、日常という名の喧騒へと戻っていく。伊香保温泉 お宿 玉樹で過ごした時間は、心の澱を洗い流してくれた。

濡れた畳の香りが、まだ指先に静かに残っている。

  • 石段街を歩くなら、迷わず一番歩きやすい靴で。おしゃれは宿に着いてからで十分。
  • 地酒スタンドでは、あえて名前の分からない銘柄に挑戦してみて。それが一番当たりするから。