← 戻る 伊香保温泉 大衆旅館ふくぜん

畳の上のコンビニ袋が、心地よくカサカサ鳴っていた

畳の上のコンビニ袋が、心地よくカサカサ鳴っていた

誰が真夜中の食欲に火をつけたのか

自販機にコインを投入したものの、ボタンを押しても何も出てこなかった。指先に残る金属の冷たさと、期待を裏切られた小さな空白。もしかすると、これが今回の旅の正しい始まりだったのかもしれない。五月の雨上がりの空気は、肌にまとわりつくほどしっとりと湿っていて、どこか甘い藤の花の香りが夜風に混じっていた。私たちは、浴衣の裾を気にしながら、徒歩五分のファミリーマートまで歩くことにした。軒先から滴る雨粒が、表面張力でぷっくりと膨らんでから、すとんと地面に落ちる。その静かなリズムに合わせて歩く。大衆旅館ふくぜんの玄関を出て、新緑の濃い闇に溶け込むようにして、私たちは「深夜の買い出し」という大義名分を手に入れた。

咀嚼の合間にこぼれ落ちた、とりとめない言葉たち

「ねえ、誰が一番多く買ったか賭けない? 勝ち負けは、明日チェックアウトする時の荷物の重さで決めようよ」

露天風呂付き客室「桔梗」の畳の上に広げられたコンビニ袋から、地元の銘菓や、見たこともない色のスナック菓子が次々と取り出される。十平米という、肩が触れ合うほどのコンパクトな和室。けれど、その狭さが心地いい。誰かが笑えば、その振動が畳を通じて隣の人に伝わる。

「いや、重さで決めるのはズルいし。だって、誰か絶対にお土産買い込みすぎてるでしょ」

「あ、バレた。でもこれは私の分じゃなくて、みんなの分だから。いいでしょ?」

「はいはい、そういう言い訳は聞き飽きた。それより見て、このお菓子。パッケージが昭和すぎて、逆に新しくない?」

私たちは、上州牛の佃煮や、地元の甘いお菓子を口に運びながら、とりとめもない会話を繰り返した。会話は一定の方向を持たず、緩やかな潮流のように部屋の中を巡る。誰かが言いかけた不満が、誰かの冗談に飲み込まれて、また別の方向へ流れていく。展望温泉で身体の芯まで温まった後の、心地よい脱力感。裸足で踏む畳の、少しざらついた感触が、意識を「いまここ」にある幸福感に繋ぎ止めていた。ふと、誰かが「ここ、いいよね」と呟いた。その言葉に誰も同意しなかったけれど、みんなが同じタイミングで深く頷いたのが分かった。そんな、言葉にならない合意が、この狭い空間を不思議な安心感で満たしていた。

胃袋が満たされた後に訪れる、凪の静寂

お菓子の袋が空になり、飲みかけのペットボトルがいくつか転がっている。賑やかだった声が消え、部屋には古いエアコンの低い唸りと、遠くで聞こえる夜風の音だけが残った。静寂は、何もないことではなく、むしろ密度を持った何かのように、私たちの間に降り積もっていく。

もしかすると、孤独というのは、誰かと一緒にいる時にだけ、その輪郭がはっきりと見えるものなのかもしれない。でも、ここにあるのは寂しさではなく、互いの存在を認め合った上での、心地よい距離感だった。毛細管現象で水分が吸い上げられるように、私たちは意識せずとも、お互いの体温や呼吸のリズムを共有していた。大衆旅館ふくぜんの、どこか懐かしい木の香りと、使い込まれた布団のずっしりとした重みが、強張っていた心をゆっくりと解いていく。完璧なプランを立てて、有名な観光地を効率よく回る旅もいいけれど、こうして深夜にコンビニ菓子を囲んで、くだらないことで笑い合い、最後は静かに眠りに落ちる。そんな、予定調和から外れた時間こそが、旅の本当の正解な気がする。私たちは、もはや何も話す必要はなかった。ただ、そこに一緒にいるという事実が、十分な答えになっていたから。

朝の光が、畳の縁に細い金の線を引いていた。

  • 地元の銘菓と、コンビニの濃厚なアイスを交互に味わう贅沢な組み合わせ。
  • ぬるくなったお茶と一緒に楽しむ、少し塩気の強い地元の佃煮やおつまみ。