なぜ、この場所を家族で歩きたくなるのか。
廊下を歩くとき、裸足の裏に伝わる木の冷たさが心地よく、少しだけ身震いした。3月の伊香保は、まだ冬の端っこを掴んでいるような、ひんやりとした空気に包まれている。チェックインして部屋に入ったとき、まず目に飛び込んできたのは、使い込まれたBC工房の椅子の深い色合いだった。指先でその滑らかな木目をなぞってみると、誰かが長い時間をかけてここに座っていたという、目に見えない記憶の層に触れた気がする。家族で旅に出るということは、もしかすると、自分たちの新しい記憶を、誰かが残した古い記憶の上にそっと重ねていく作業なのかもしれない。
そして、岸権旅館に流れる「黄金の湯」は、単なる温泉ではなく、家族という不器用な集団を優しく包み込む大きな毛布のような質感を持っている。お湯はどこか重みがあって、肌に吸い付くような濃厚な感覚がある。お風呂に浸かった瞬間、子供たちが「あったかい!」と同時に声を上げた。その無邪気な声が、浴室の高い天井に当たって、心地よい残響となって降り注ぐ。正直に言えば、家族での温泉旅行は、いつも少しだけ戦いだ。誰が先に浸かるか、タオルをどこに置いたか。でも、ここではその喧騒さえも、空間の一部として溶け込んでいく。湯船の中で、次男が「温泉ってどこから来るの?」と不思議そうに聞いてきた。「大地の深いところで、地球が温めてくれたお湯なんだよ」と、私は適当な答えを返した。正解かどうかは重要ではない。ただ、立ち上る白い湯気の中で顔を見合わせ、一緒に不思議がる時間が、何よりも贅沢なものに感じられた。黄金色の湯に浸かりながら、肩の力が抜けていく感覚。それは、何かを解決することではなく、ただそこに在ることが許されているという、静かな肯定感に近いものだった。
子供たちが一番心を奪われたのは、どの瞬間だったか。
大人にとっての贅沢は静寂かもしれないけれど、子供たちにとっての贅沢は「探検」だ。この旅館には13箇所ものお風呂があるという。それを聞いた瞬間、子供たちの目は、獲物を狙う小さな動物のように輝いた。彼らにとって、旅館の中を歩くことは、地図のない迷宮を攻略するゲームのようなものだったのだろう。浴衣の裾をひっかけては転びそうになりながら、「次のお風呂はどこ?」と走り回る。その足音が、古い廊下にリズミカルに響き渡る。
特に彼らが夢中になったのは、旅館のすぐ隣にある石段街だった。3月の澄んだ空気の中、一歩ずつ階段を登る。途中で見つけた小さなお店で、地元の甘いお菓子を頬張ったとき、長女が「ここ、お城みたいだね」と呟いた。その視線の先には、春の訪れを待つ、まだ少し眠そうな山々の景色が広がっていた。展望和モダンな客室から眺める赤城山の稜線さえも、彼らにとっては未知の王国への入り口だったのかもしれない。石段の隙間に生えた小さな苔や、通りすがりの人が持っていた不思議な形の袋。そういう些細なディテールに心を奪われている彼らを見ていると、私自身の世界も、少しだけ解像度が上がったような気がした。完璧なスケジュールなんて、最初から必要なかったのだ。予定外の寄り道や、子供の気まぐれに付き合うこと。その「ノイズ」こそが、旅という曲に深みを与えるリバーブのような役割を果たしていた。
旅が終わったあと、心にどのような音が残るのか。
最終日の朝、窓の外に広がる赤城山の深い青を眺めながら、温かいお味噌汁を啜った。地元群馬の食材を使った料理は、派手さはないけれど、噛むほどに素材の誠実さが伝わってくる。特に地元の豚肉の脂の甘みが、冷えた体にじわりと染み渡ったとき、なんだか泣きそうになった。それは悲しみではなく、ただ心地よさが飽和してしまったときの、某種の身体的な反応だったと思う。
チェックアウトして旅館を離れるとき、振り返ると、そこには大正ロマンの香りを纏い、変わらずに佇む岸権旅館の静かな姿があった。家族で過ごした時間は、決して静かではなかった。笑い声があり、泣き声があり、言い争う声もあった。けれど、そのすべての音が混ざり合って、一つの心地よい和音になっていた。家に帰れば、またいつもの慌ただしい日常が始まる。けれど、心の中にこの「黄金色の残響」を持っていれば、ふとした瞬間に、あの湯気の温もりや、子供たちの笑い声を思い出すことができるだろう。私たちは何かを得るために旅をするのではなく、自分たちがもともと持っていた「家族という質感」を再確認するために、ここに来たのかもしれない。
夕暮れの石段街で、子供たちが私の指をぎゅっと握りしめたときの、あの小さな手の温度だけを、ずっと覚えていたい。
- 13箇所のお風呂を巡る「湯巡りマップ」を子供と一緒に作りながら、旅館の中を冒険するのがおすすめです。
- 石段街を散歩した後は、ぜひラウンジでBC工房の椅子に深く身を委ねて、山の景色に心を浸してみてください。