← 戻る ホテル花いさわ

引き戸の音が、少しだけ正直すぎた

引き戸の音が、少しだけ正直すぎた

地図アプリがフリーズし、青い点が迷子になった。私たちは桜の淡いピンクに囲まれて立ち尽くし、結局、頬を撫でる風の方向に身を任せることにした。そんな行き当たりばったりの足取りで辿り着いたホテル花いさわの入り口は、春の湿った土の匂いと、どこか懐かしい木の香りに包まれていた。



ロビーのウェルカムドリンクコーナーで、「誰が一番ひどい味を作るか」という、大人の遊びに興じた。友人が自信満々に調合したカクテルは、見た目こそ宝石のように鮮やかだが、口に含んだ瞬間、強烈な薬草の苦味が舌を突き抜けた。「これ、本当に飲めるの?」と顔を見合わせた瞬間、この旅が心地よくめちゃくちゃな方向へ転がることを確信した。


「人生最高の1枚を撮ってやるよ」と豪語していた自称カメラマンの友人が、後で画面を見せると、構図のど真ん中に巨大な親指が鎮座していた。私たちは腹を抱えて笑い、「お前の指が主役かよ」と全力で突き放した。しばらくの間、彼のカメラ権限は剥奪されたが、ぼやけた写真こそが、あの時の騒がしい笑い声を一番正確に記録していた。


部屋の引き戸を開けるたびに、「ぎぎぃ」と遠慮のない音が廊下に響く。古い木造建築が上げるその軋みは、まるでこの宿が私たちに「静かにしなさい」といたずらっぽく囁いているようだった。私たちはその音にリズムを合わせて歩くという、子供じみた遊びに没頭した。不便さという不純物が、最高の娯楽に変わる瞬間だった。


1棟貸し離れ「花れい」の窓辺。夕暮れ時、遠くを走る列車のライトが、プリズムを通した光のように細長く夜に溶け出していた。誰がどこへ向かっているのかは分からない。けれど、その光の軌跡をぼんやり眺めていると、自分たちも日常という駅を離れ、どこか遠い場所へ運ばれていくような、心地よい心細さに包まれた。


温泉に身を沈めると、とろりとしたお湯の温度が肌にまとわりつき、凝り固まった思考がゆっくりと溶け出していく。湯上がりに浴衣の袖を揺らしながら歩くとき、裸足で触れる床のひんやりとした感触が、火照った体に心地よく染みた。深夜の静まり返った廊下を歩く足音が、いつもより大きく、親密に響いていた。


温かいお茶を啜っていたとき、ふわりと舞い込んできた桜の花びらが、カップの水面に静かに着地した。計算された演出などない、ただの偶然。けれど私たちは、誰からともなく口を閉じ、その小さなピンク色の破片が揺れる様子をじっと眺めていた。沈黙が重荷ではなく、心地よい空白としてそこにあった。


チェックアウトのとき、私たちは誰一人として「また来たいね」なんて感傷的な言葉を口にしなかった。ただ、「次はもっとひどいカクテルを作ろう」と、いたずらっぽく笑い合っただけ。計画を捨て、道に迷い、古びた扉の音に笑った時間だけが、今の私たちにとって一番リアルな記憶として刻まれている。

窓の外で、最後の一片の花びらが風に舞った。

  • ロビーの自作カクテルで、あえて「正解」を外した味に挑戦してみて。
  • 離れ「花れい」の窓辺で、ぼーっと電車の通り過ぎる時間を数えてみて。