← 戻る 糸柳こやど ゆわ

浴衣の袖に、小さな光が溜まっていた

浴衣の袖に、小さな光が溜まっていた

午後4時、肌に張り付く湿気と、麻の冷たさ

石和温泉駅から宿まで歩く20分間、アスファルトから立ち上がる暴力的なまでの熱気が、肺の奥までじわりと浸透してくる。そんな中、糸柳こやど ゆわに足を踏み入れた瞬間、空気がふっと入れ替わった。出迎えてくれたのは、古い木造建築特有の落ち着いた香りと、どこか懐かしいお香の匂い。もらったばかりの浴衣に袖を通すと、麻の少し硬い質感と、ひんやりとした温度が火照った肌に触れて、心地よい緊張感が走る。浴衣というものは、着るだけで自分の歩幅が少しだけ狭くなり、心まで緩やかになる不思議な衣装だ。もたつきながら帯を締めようとして、結局うまく結べず、私は君に「手伝って」と小さく声をかけた。君が後ろから手を伸ばして、不器用そうに帯を整えてくれる。そのとき、肩に触れた指先の温度が、外の猛暑とは違う、静かな熱を持っていて、なんだかひどく安心した。

庭付露天風呂に身を委ねると、水面に反射した午後の強い光が、プリズムのように細かく砕けて視界に飛び込んできた。アルカリ性の単純温泉は、肌に吸い付くような滑らかさがあって、指の間を通り抜けるお湯の感触が、まるで薄い絹の膜に包まれているみたいだった。ふと見ると、池で鯉たちが激しく水面を跳ねている。私も真剣な顔で餌をあげようとしたけれど、彼らの食欲が予想以上に凄まじくて、危うく餌の袋ごと池に落としそうになった。そんな情けない姿を見て、君が小さく吹き出した。その笑い声が、絶え間ない水音に混ざって心地よく耳に届く。ここでは、完璧に振る舞う必要なんてないのかもしれない。ただ、光の屈折に目を細めて、お湯の温度に身を任せていればいい。そんな、緩やかな時間がそこには流れていた。

午後11時、ロフトの天井と、まぶたの裏に残る残像

「山ざくら ロフト付き客室」にあるロフトへ登る階段は、子供の頃に憧れた秘密基地のような高揚感がある。限られた狭い空間に二人で身を寄せ合うと、相手の呼吸の音が、いつもよりずっと近くに、密やかに聞こえる。エアコンの低いハム音が、部屋の静寂をかえって際立たせていて、私たちはどちらからともなく、言葉を止めた。窓の外では、7月の夜風に揺れる木の葉が、さらさらと囁き合っている。夕食に出た山梨の夏野菜の、あの瑞々しくて少し土っぽい甘みが、まだ舌の端に残っていた。地元の食材というものは、その土地が抱える記憶をそのまま味わっているような気がする。

ベッドに横たわり、ゆっくりと目を閉じると、さっきまで灯っていた間接照明の柔らかなオレンジ色が、まぶたの裏に心地よい残像となって張り付いていた。暗闇の中で、君の体温が隣からじわりと伝わってくる。私たちはまだ、お互いの心地よい距離感や、言葉にできない機微を、ゆっくりと探っている最中なのかもしれない。でも、この部屋の静けさの中では、その「分からない」という不確かささえも、一つの心地よいリズムのように感じられた。寂しさとは、取り除くべき欠損ではなく、誰かと分かち合うために最初から持っていた器官のようなものだ。そう思うと、隣に誰かがいるということが、単なる物理的な近さ以上の意味を持って、心の中にしっとりと沈殿していく。

もしかしたら、私たちは明日になればまた、日常の慌ただしさに飲み込まれて、今のこの感覚を忘れてしまうのかもしれない。けれど、指先が触れ合ったときの微かな震えや、ロフトの天井を見上げて感じたあの奇妙な安心感だけは、記憶の底に澱のように溜まって、いつかふとした瞬間に、静かに光を放つはずだ。答えを出すことよりも、ただ一緒に迷っている時間の方が、ずっと贅沢な気がする。夜が深まるにつれて、外の虫の声がより鮮明になり、私たちの意識はゆっくりと、深い眠りの方へと溶けていった。

裸足で踏んだ畳の、少しだけひんやりとした感触が、今も足裏に静かに残っている。