← 戻る 糸柳こやど ゆわ

靴を脱いだ瞬間に、誰かが笑った

靴を脱いだ瞬間に、誰かが笑った

喧騒を連れて、冬の入り口へ

11月の笛吹市は、空気がピンと張り詰めていて、吸い込むたびに鼻の奥がツンとする。駅からの道を歩いているとき、子供たちのコートのボタンが一つ掛け違っていることに気づいたけれど、それを直す余裕はなかった。キャリーケースの車輪がアスファルトを叩く乾いた音が、リズムを刻まずにバラバラに響き、私の焦燥感を煽る。「お願いだから、静かに歩いて」と心の中で呟くが、子供たちにとってこの旅はすでに始まっており、好奇心という名のエンジンが全開だった。そんな、少しだけ余裕のない状態で、私たちは「糸柳こやど ゆわ」の門をくぐった。

チェックインの手続きをしている間も、上の子はロビーの隅にある小さな置物に興味を示して身を乗り出し、下の子は私の足元でくるくると回っている。静寂が心地よいはずの和風の空間に、家族という名の小さな嵐が舞い込んだ感覚。けれど、ここではその騒がしささえも、静かな水面に投げ込まれた小石が作る波紋のように、自然に広がっていく。スタッフの方の柔らかな微笑みと、空間に漂う落ち着いた木の香りに触れていると、完璧な旅を目指そうとしていた自分の肩の力が、ふっと抜けるのがわかった。もしかしたら、旅の正解とは、予定通りに進むことではなく、この心地よい乱雑さを受け入れることなのかもしれない。

秘密基地の階段と、金色の舞い

案内された「山ざくら ロフト付き客室」に入った瞬間、子供たちの目がらんらんと輝いた。視線の先には、小さなロフトへと続く木の階段がある。大人の私にとっては単なる設備に過ぎないけれど、子供たちにとってはそこは未知の領土であり、誰にも邪魔されない最高の秘密基地なのだろう。階段を登るたびに、木の床が「ギィ」と小さく鳴る。その素朴な音が、彼らの期待感をさらに高めているようだった。上の子がロフトから身を乗り出して「ここから全部見えるよ!」と叫んだとき、部屋の中には純粋な歓喜が満ち溢れた。

中庭に面した窓からは、紅葉が燃えるように鮮やかに色づいているのが見える。私たちは公式HPの特典でもらった鯉の餌を持って、外の冷たい空気に飛び出した。水面に餌をまいた瞬間、静かだった池が激しく波打ち、金色の鱗を持つ鯉たちが一斉に集まってくる。水しぶきが子供たちの頬にかかり、彼らは顔を見合わせて声を上げて笑った。その光景は、まるで水流が複雑に絡み合いながらも、一つの大きな喜びの流れを作っているかのようだった。下の子が「お魚さんがダンスしてる!」と小さな指で指差したとき、私はただその光景を眺めていた。計画していた観光スポットをいくつ回るかよりも、この水面の小さな騒動に時間を忘れて見入っていたことの方が、ずっと価値があるように感じられた。

湯気に溶ける役割と、深い静寂

子供たちがロフトの布団に潜り込み、規則正しい寝息を立て始めた頃、ようやく大人の時間が訪れる。部屋に漂うい草の香りと、かすかなお香の匂い。さっきまでの喧騒が嘘のように、空間に深い静寂が降りてきた。私たちは、天然温泉の薬石浴へと向かった。お湯に体を沈めた瞬間、皮膚の表面で熱がじわりと広がり、凝り固まっていた筋肉がゆっくりと解けていく。水温がちょうど良く、心地よい重みが体にまとわりつく感覚。それは、日々の生活で積み重なった「親としての役割」という重い外套を、一枚ずつ丁寧に脱ぎ捨てていく作業のようだった。

露天風呂から見える夜空は深く、冷たい空気が頬を撫でる。お湯の熱さと外気の冷たさが、皮膚の境界線で激しくぶつかり合い、心地よい緊張感を生んでいた。隣にいるパートナーと、あえて言葉を交わさずにただお湯の音を聞いている。水が溢れ出す小さな音が、耳の奥で心地よく共鳴していた。もしかすると、家族の絆というものは、一緒に何かをすることだけでなく、こうして同じ静寂を共有することで深まっていくのかもしれない。子供たちが眠った後のこの静かな時間は、水面に張った薄い膜のように繊細で、けれど何よりも贅沢なひとときだった。

ほどけない結び目と、朝の光

翌朝、窓から差し込む柔らかな光が、部屋の中の埃さえもキラキラと輝かせていた。地元の食材をふんだんに使った朝食は、一口ごとに季節の味がした。特に、出汁の効いた温かい料理が胃に染み渡り、体の中からゆっくりと目覚めていく。子供たちは、昨夜の興奮がまだ残っているのか、食卓でも賑やかに話し続けていた。けれど、その声はもう、嵐ではなく、穏やかなせせらぎのように心地よく聞こえた。

チェックアウトの時間が近づくと、上の子が「まだここにいたい」と、私の服の裾をぎゅっと掴んだ。その小さな手の温度が、心の中にじわりと広がっていく。旅が終わる寂しさは、水底に沈んだ石がゆっくりと砂に埋もれていくような、静かな喪失感に近い。けれど、私たちは同時に、ここでの記憶という名の波紋を心に抱えて帰るのだと思う。糸柳こやど ゆわを後にするとき、私たちは昨日よりも少しだけ、お互いの不完全さを愛せるようになっていた気がした。車に乗り込み、再び笛吹市の道を走り出す。バックミラーに映る旅館の姿が小さくなっていくけれど、心の中にはまだ、あの温かいお湯の感触と、子供たちの笑い声が、心地よい余韻として残り続けていた。

  • 子供と一緒に泊まるなら、迷わずロフト付きの客室を。子供たちの好奇心が最大限に引き出され、親にとっても意外なほど静かな時間が訪れます。
  • 公式HP予約でもらえる「鯉の餌」は、子供たちにとって最高のエンターテインメントに。水面の賑わいを眺めるだけで、十分な旅の思い出になります。