← 戻る 糸柳こやど ゆわ

ロフトの天井に、笑い声が染み込んでいた

ロフトの天井に、笑い声が染み込んでいた

九月の笛吹市は、空気が少しだけ重さを変える。肌に触れる風が、夏の終わりの粘り気を捨てて、どこか乾いた、透明な質感に変わっていく瞬間がある。道の端で揺れるススキの穂が、誰にも聞こえないリズムでざわついていて、それを聞いていると、なんだか自分たちもそのリズムに飲み込まれていい気がしてくる。辺りには、熟し始めたぶどうの甘い香りがかすかに漂い、秋の訪れを急かしていた。私たちはそんな気ままな気分に身を任せ、糸柳こやど ゆわの門をくぐった。

私たちの「大人のふり」を静かに笑っていた五つのもの

山ざくら ロフト付き客室の梯子:使い込まれた木の質感が指先に心地よく、登るたびに小さく軋む懐かしい音。誰が一番早く上に登れるかという、大人がやるにはあまりにくだらない競争に、この梯子は静かに耐えてくれていた。「もう、いい加減にしなさいよ」と誰かが言いながらも、結局は最後の一人が登り切るまで、全員が笑いすぎて息切れしていた。その滑稽な光景を、梯子はただ黙って受け止めていた。

庭園の池に棲む鯉たち:陽光を浴びてオレンジ色の鱗が水面で不規則に光る。餌をあげるタイミングで、誰が一番多くの魚を惹きつけられるか、本気で議論していた私たちの姿。彼らは大きな口をパクパクと開けて、「人間とは、なんて単純な生き物だろう」とあきれたように眺めていたに違いない。

糊のきいた浴衣の袖口:洗いたての綿の匂いと、少しだけ硬い生地の感触。地元のワインを飲みすぎて、誰かがこぼした小さな赤紫色のシミが残っている。それは、私たちが「静かに過ごそう」という大人の約束を、開始十分であっさりと忘れたことの、動かぬ証拠だった。

貸切風呂の薬石浴のタイル:足裏に伝わる、じんわりとした熱と滑らかな温度。立ち上る湯気に包まれ、普段は口に出さないような、少しだけ格好悪い本音を話し合った時間。タイルの温度が、私たちの心の境界線をゆっくりと溶かし、剥き出しの感情をさらけ出させてくれたのかもしれない。

部屋の重厚な引き戸:スッと滑る心地よい音と、指先に伝わる木の冷たさ。深夜三時に、誰が内緒で夜食を運んできたのか。その密やかな作戦会議の囁き声と、忍び足で歩く緊張感を、この扉はすべて記憶しているはずだ。

もし彼らが口を揃えて語り出すなら

きっと彼らは、私たちを「騒がしいけれど、心地よい周波数を放つ集団」と呼ぶだろう。九月の夜の湿度が、ゆっくりと秋の気配に塗り替えられていくように、私たちの会話も、最初は遠慮がちだったけれど、次第に剥き出しの笑い声に変わっていった。ロフトという密室で、重なり合うようにして横になり、天井を見上げてくだらないことで笑い合う。そのとき、部屋の中の空気は、嵐が来る前の気圧の低下に似た、不思議な高揚感に包まれていた。私たちはここで、大人であることの責任を、ほんの少しだけ脱ぎ捨てることができた。誰かが欠けていても、あるいは誰かが多くても、この空間にいた全員が、同じリズムで呼吸していた。そんな、名前のつかない心地よさがそこにはあった。

露天風呂の湯面に、小さく揺れる月がひとつだけ浮かんでいた。

  • 鯉への餌やりをしながら、誰が一番魚に好かれるか、小さな賭けをしてみるのがおすすめ。
  • 宿から歩いて行けるワイナリーまで、秋の風に吹かれながらあてもなく散歩してほしい。